金曜、新しい中途採用社員の歓迎会が開かれた夜。
いつも、酒に弱いのは自覚している奏太が深酒をすることはなかったのに、周囲がどれだけ止めても奏太は飲酒のピッチを緩めなかった。
何か自棄を起こしているのではないかと心配する声もあったが、酒で晴らせる憂さなら晴らせばいいじゃないかと社長は笑い、紺野が責任もって後を請け負うことで周囲は静観することにした。
案の定何杯目かのグラスをあおったところで完全に沈没した奏太は自力歩行ができず、奏太宅へ送るにも飲み屋からそれぞれの家が真逆の方角にあったのもあり、とりあえず自宅へ連れ帰ろうと紺野は奏太をタクシーに押し込んだ。
部屋に着いても奏太は深い酩酊状態で、肩を貸して室内に入っても床に転がしておくともぞもぞ身じろぐばかりでベッドへ上がろうともしない。どうしたものかと紺野が思案していると、夢うつつの風情で奏太が紺野を呼んだ。
「水飲むか?」
「ううん……紺野さぁん……」
「んー?」
「俺……なんでこんなダメダメなんすかね……」
酔っ払いの戯言かと流そうとするが、紺野は奏太が本気泣きしているのに気づいてしまった。
「俺……なんで誰かのスペアにしかなれないんですかね。好きな人の、本命になりたいんです。他に何も贅沢言うつもりないのに、それがどうしても叶わないんです」
ため息をついて愚痴につき合うことにして、紺野は奏太の背をさする。
「何だ、浮気でもされたか」
「浮気というか……二股かけてた末に離れていった元カレが、離婚したからより戻そうって」
「へえ。好きなら戻せばいいんじゃねえの? ……って、え? 今お前、」
『元カレ』っつったか?
「でもどうせ、戻したところでまた、そのうち女に戻ってくんですよ」
「……うん?」
「やっぱり女の方がいいとかなって、再婚とかしちゃって、俺なんか用なしになるんです」
「ん? え? いやちょっと待って? 言ってる意味がよく……」
混乱する紺野を置き去りに、奏太はつらさを吐き出し続ける。
「……誰かの唯一になりたいだけなんです……なんでそれだけのことが、俺にはこんなに難しいんですかね……」
涙に濡れた目が、紺野を見つめた。
扇情的、という言葉がパッと浮かんだ、その様を見て紺野は、奏太が同性愛者であることが一瞬で腹落ちした。
急に脈が走る。同性に対して感じたことのない欲求がこみ上げる。触れたい、とそんなことを思う自分に紺野は一瞬だけ惑った。
床に転がったままの奏太に歩み寄り、隣に腰を下ろして、覆いかぶさるように両耳の横に手を付く。
「……紺野さん……?」
しとどに涙をこぼし続ける瞳と視線を合わせて、ゆっくり肘を曲げて行くことにためらいがまったくなかったのは、紺野にもそれなりに酒が入っていたからかもしれない。
「っ……」
唇が触れ合う寸前に双方瞼を閉じ、触れ合った瞬間には奏太が小さく身じろいだ。けれどその動きに、拒絶はない。
しっくりと重なり、深まらずに解かれた唇が離れると、間近に開かれた奏太の瞼の中で黒目が気の毒なほどに怯え、盛大に揺れていた。
「どうして……?」
口に出すまでもなくその瞳の揺れが訳を問うていたけれど、どうしてって話があるか、と紺野は苦笑するしかなかった。
理由など紺野にも説明できはしない。ただ、愛されたいと泣く奏太にどうしようもなく惹かれ、それにあたって紺野の中のセクシャリティの観念がブレーキとして機能しなかった、その結果だった。
「……俺が、そうしたらだめか?」
「そう、って……?」
「お前のことだけを、好きになることだ」
告げると、不安の中に期待を滲ませた奏太の瞳に新しい涙が浮かんだ。
「ほんとう……?」
奏太の問いを再度自身に問いかけてみる。
なんだこれ、好奇心? いやいや、それ猫も殺すやつだ。三十にもなってそのくらいの分別がつかないでどうする。じゃあ大丈夫か俺、いきなり今日から宗旨替えできるか? これまでそれなりに懇意にしてきた、後輩としてしか大事に思ってこなかった相手を、恋愛対象として見られるか? 雰囲気と酒に酔ってねえか?
問いへの確たる答えが出るより先に、再び引き寄せられるように奏太に口づけていた。嫌悪など微塵も感じない。そうすることが自然なことのようにさえ感じられる。遠慮がちに背中に手を回され、受け入れられた感覚にことさら高揚した。
深まったキスを一度解くと、濡れた目で奏太が「シャワー借りてもいいですか」と気恥ずかしげに問う。生々しさをはらんだその申し出を快諾して、バスルームに消える奏太を見送った。
――が、待てど暮らせど奏太は出てこないし水音も聞こえてこない。何か事前準備をしているのなら扉を開けたりはしない方が良いかとは思ったが、さすがに二十分を過ぎても何の音沙汰もないのは不審で、紺野はバスルームのドアをノックした。
「柚木……?」
返事のないドアをそろそろと開けて、思わず紺野は膝から崩れた。
脱衣所の床で、バスタオルにくるまるようにして、全裸の奏太が安らかな寝息を立てていたからだ。
「そのお前をベッドに運んで、俺は別の部屋で寝た。それがあの日にあったことの全てだ」
聞かされたあまりの顛末に、顔から火が出る思いで奏太は床に這いつくばった。紺野の方へ向き直り、額を床に擦り付けて人生二度目の土下座をする。
「すみません!! とんだご迷惑と……なんというか、お詫びのしようもない失礼を……」
要するに酔って甘えて据え膳になった挙句、見せびらかすだけ見せびらかしてお預けを食らわせたのだ。
「いや、そこで寝ちまったのは別に、責めるつもりもないし仕方ないことだと思ってるんだよ。俺も酒入ってたし」
「でも……」
「俺が今言いたいのはそこじゃなくてさ。その、俺も酔ってた時の気持ちがさ、酔いがさめても変わんなかったってことなんだ」
「……え?」
「お前だけを、好きだよ」
紺野の告白を聞いて、まず奏太は、嬉しさよりも何よりも先に困惑を覚えた。喜べない。困る。受け入れられない。
「それは……だから、ダメです。紺野さんは、女の人ともつき合える人でしょう? 俺はもう、そういう人とはつき合わないって決めてるんです」
断りながら、紺野を拒むのと同じ頭で考えていた。
紺野が完全なゲイだったらどれほど良かっただろう。女を抱かないこの人に求められたなら、一も二もなく自分のすべてを差し出していたと思う。
それなのに、いつかまた自分を捨てて女を選ぶのではないかと、危惧しただけでこんなにも胸が痛い。怖くて怖くて、もうその顔もまともに見られない。
浅井が大好きだった。一生一緒にいたいと思っていた。浅井は優しくて、愛されていると思っていた。隣にいると安心して、心の底から幸せだった。
その浅井に女性の恋人がいると知ったとき――与えられていた愛が半分だったと知ったとき、自分の価値が半減したように感じた。それまでと同じように無防備には、抱かれることができなくなった。
つまらない自分。こんなことでは捨てられてしまうと、焦れば焦るほど心と体は不一致を起こし、うまくいかなくなった。
そして浅井の気持ちが離れていくのを何もできないままじりじりと感じ、最終的に浅井は女性との結婚を選んだ。奏太は男である自分を消してしまいたかった。
あんな思いはもう二度としたくない。食欲も睡眠欲も性欲もすべてが消失して、ケイの助けを得ながらまともな生活ができるようになるまで随分かかった。今だって完全には立ち直れていない。浅井からの復縁要請に、奏太の精神は大きくバランスを崩した。
安定がほしい。安心したい。その相手に紺野を選べない。
「……俺はやっぱ、女もいけるからって理由でふられるわけだな?」
冷静な声で言った紺野は、怒っているように見えた。
「けどよく考えろよ。ゲイなら必ず一生添い遂げるのか? お前を捨てた昔の男は、バイだからお前を捨てたのか?」
「え……」
「違うんじゃねえの。相手が男か女かの違いはあれど、そいつがただ浮気者だったっつーだけの話じゃねえの?」
問われて初めて、奏太は妄信的に「女に負けた」と思い続けていた自分に気づいた。
「ゲイでもバイでも、元々ストレートだったとしても、ちゃんとお前を一途に好きでいられる奴なら、お前の相手が務まるんじゃねえの?」
当時慰めてくれていたケイも、浅井が奏太を捨てて女と結婚したという部分をことさらに糾弾していたから、奏太もその部分だけを特に疵に思っていた。けれど考えてみれば奏太は「浮気」されて、「二股」かけられて、その結果「お別れ」したわけだから、実はその過程に男も女も関係なかったということになる。
男女のカップルにだって、「浮気」も「二股」もある場合もあればない場合もある。「お別れ」するカップルもいれば、添い遂げるカップルもいる。
何か憑き物が落ちたような気持ちで、クリアになった視界の中に紺野をとらえると、その紺野は「ん? でもバイの方が浮気対象の母数が倍だから浮気される確率も倍になるのか? いやでもそんなの人によるだろ?」と考えても仕様のない迷宮に突入し始めていた。
「紺野さん」
「ん?」
呼び掛けると、紺野は応えてくれる。奏太が問えば、答えをくれる。
「紺野さんは、浮気をしない人ですか?」
間の抜けた問いに失笑しながらも、奏太の頭にポンと手を載せた。
「俺は今まで浮気はしたことがない。し、今後もしないようにする。お前を不安にさせないように、最大限努力する」
それでいいか? と紺野は問い返し、奏太は顔をくしゃくしゃにして、小さく何度も頷いた。