「朔、朔、ちょっと」
翌朝出勤した紺野は、席につくより先に社長に呼ばれてパーテーションの陰に移動した。
「何か用か社長」
「待って朔ちゃん、俺社長、お前従業員。敬意。要るよね?」
「あんたに敬意払うくらいなら募金する」
「いや~、かわいい後輩持って幸せよ俺」
目頭を押さえるふりをして、そうじゃなくて、と社長が話を戻す。
「さっき水本さんとこにかなたんから今日休むって連絡あったみたいなんだけどさ」
「柚木が?」
「うん。体調不良らしいんだけど、朔何か聞いてる?」
問われて、紺野は憮然と眉を寄せた。
「有休の理由を訊くのはパワハラだろう」
「いやまぁ、それはそうなんだけど。かなたんが体調不良で当日休みとか、珍しいじゃん。全然それを疑ってるわけじゃなくてさ、実際ここんとこずーっと体調悪そうだったしあの子。歓迎会のときも様子おかしかったし……どんどん痩せてくのに何も言わないし。いよいよ限界迎えて家でぶっ倒れてんじゃないかと思うと心配でさ」
「ああ……」
さすが腐っても社長、よく見てるな、と紺野は感心した。勝手に腐らされてしまった社長は、伺うように紺野を上目で見る。
「悪いけど朔、仕事終わりにちょっと家まで様子見てきてやってくんない? あの子一人暮らしだし、動けなくて困ってるかもしれないし。これで何か飯でも買ってってやってくれよ」
おもむろに尻ポケットから出した財布から千円札を数枚抜いて寄越す社長に、仕方ねぇなぁ、と尊大に頷いて紺野は席に戻った。
体調不良で急遽休み、などと聞けば紺野もにわかに奏太が心配になってくる。何かの病気かという勢いで肉が削げていく奏太のことは前々から気になっていたし、仕事終わりを待ち伏せる元カレの存在も気がかりではあった。
(……まさかどっか拉致られて出社できないとかじゃないだろうな?)
不穏な想像が頭をよぎって、休憩中に何度か携帯にメッセージを入れる。けれど返信はなく、その日紺野は仕事が手につかなかった。
定時を迎え、早速紺野は席を立った。途中コンビニに寄り、二人分の弁当と、本当に奏太が臥せっていた場合に備えてレトルトのおかゆやゼリーをいくつか買い込む。
急いた足取りで奏太の部屋へ向かい、呼び鈴を押すと、しばしの間のあと内鍵がガチャンと開いた。
「はい……」
「よう」
ドアの隙間から顔を出した奏太に買い出しの袋を掲げると、奏太は目を見開いてドアを大きく開けた。
「紺野さん。どうしたんですか急に?」
「急でもないわ。何度もラインしたっつーの」
「え、マジすか? あ、どうぞ、上がってください」
紺野を部屋に招き入れた奏太はよれたTシャツにハーフパンツ姿で、いかにもさっきまで寝てましたという寝ぼけた顔に寝ぐせのついた髪をしていた。体調不良は本当だったのだろう。
「玄関鍵かけとくぞ」
「あ、ありがとうございます。あー携帯電池切れてました。すいません、仕事で何かありました?」
部屋に戻ってベッドに腰かけ、枕元で死んでいたらしい携帯を奏太は充電ケーブルにつないだ。
「……わー、今通知来た」
起動した携帯の中の紺野からのメッセージに、奏太は目を細める。
『生きてるか』『夕方行くぞ』『何か食えそうな物あるか』と、愛想も素っ気もない文面なのに、見つめる奏太はほんのり嬉しそうだ。
その表情をどう受け取ればいいかわからず、紺野は首を掻いて床に腰を下ろした。
「体調不良って、大丈夫なのか? 熱は?」
「あ、いえ、熱とかはないんです。ただ朝起きてからどうにもめまいがして体に力が入らなくて」
「そりゃお前、飯食ってないからだろう。細っこい腕して」
肘先よりも細い奏太の二の腕に紺野が触れると、奏太が過剰なほどにびくりと震えた。それに驚いて、紺野も思わず手を引く。
「あ……あ、すいません」
「いや、悪い……」
気まずい空気が流れ、あてどなく紺野は持ってきたコンビニの袋に手を伸ばした。
「あ、これ、差し入れ」
「すいません、わざわざ。お代……」
「気にすんな、出所は社長だ」
「うわ、どうしようそんな」
「あいつにこそ気ぃ遣うな。福利厚生だと思っとけ」
社長が会社設立時に紺野を引き抜く際、泣いて頼んだという噂はまことしやかに囁かれていて、今の紺野と社長との力関係を見るにつけ、その噂は真実のように思われる。
クスっと笑みを漏らした奏太を見て、紺野も少し安堵した。
「食欲ないか知らんが、飯食わねえと体もたないのは当たり前だろ。お前、この間俺と一緒に普通に弁当食ってたじゃねえか」
とりあえずのゼリー飲料を受け取りながら、奏太は一緒に弁当を食べた夜のことを思い出した。紺野が、奏太の恋人のふりをしてくれた日のこと。
「紺野さん……すいません、元カレに、紺野さんが恋人じゃないことがばれてしまいました」
弁当の蓋を開けながら、紺野が目を見開く。
「またどっかで待ち伏せでもされたのか? もしかして何かされたのか」
慌てた様子で問われ、奏太は苦笑して手を振る。
「いえ、そんなことはないです。一度、電話で話したきりです。もうそれで最後だって」
口を開けないままのゼリー飲料をテーブルに戻して、奏太は俯いて膝の上で拳を握った。
「せっかくホモのふりしてもらったのに、すいませんでした。俺がうまく言えなくて」
自虐的な響きを感じて、紺野は奏太の捨て鉢な態度が気に障る。
どうして奏太は、全部自分が悪いような物言いばかりするのだろう。どうして自分をどうでもいいもののように扱うのだろう。奏太を大事にしたいと思う人間が、そばにいるというのに。
わからせたくて、紺野は弁当を置いて奏太に正面から向き合った。
「別に、そんなのはいいよ。そもそもふりっていうかさ……この間お前が泥酔してうちに泊まってった朝、俺はお前とつき合っていくつもりで」
話が核心に触れそうになったのを察して、奏太が両手を振って顔を上げる。
「やめてください! 同情してくれなくていいんです」
赤く充血した目で、奏太は紺野をじっと見据えた。
「……じゃあ教えてください。俺はあの夜どうでしたか? ちゃんと紺野さんとセックスできましたか? 紺野さん相手にちゃんと勃ちましたか?」
涙腺が毀れないよう、抑えた声が悲愴に震える。矢継ぎ早にらしくない直截的な言葉で問い詰めてくる奏太に、思わず紺野は返事に詰まる。
「――できなかったんでしょう? 何も、無かったんでしょう、あの夜本当は」
「柚木……」
「そんな気がしてました」
全裸で目覚めたあの朝には動転していたけれど、数日経てば奏太にも辻褄の合わなさがわかってくる。
数年、そういう行為から遠ざかっていたのに、突然場慣れもしていないストレートの男に抱かれたのだとしたら、体が無事で済むわけがない。
さらに言えば翌朝のリネンの清潔さ体の違和感のなさは、事後にどれほど丁寧に身仕舞いしてもらったのだとしても、既成事実が生じたと信じるにはあまりに説得力がなかった。
「俺は、女ともつき合える人相手には、勃たないんです。好きな人とも、まともにできないんです。こんな奴と、なんでつき合っていいなんて思えたんですか? 俺、どんな情けないこと言って紺野さんの同情を引いたんですか?」
バイやストレートを相手にするのはもう御免なのに、紺野に恋をしている。
その紺野がつき合ってくれると言っているのに、それを拒んでいる。
拒む相手との既成事実などなかったのではと薄々気づいているのに、あったことにできればとどこかで願っている。
矛盾だらけで、堂々巡りで、まともに人を好きになることもできない惨めな自分に、奏太は心底嫌気がさした。
「……ほんとにお前、あの時のこと何も覚えてないんだな」
膝に伏せて両手で顔を覆った奏太の背に、紺野が手のひらを当てる。
驚きのような安堵のような、いろんな感情を包含した複雑な表情で紺野は呟いた。
「覚えてないんだろうし、信じなくてもいい。あの夜に俺たちが話したことを、まずは全部教えるよ」
静かにそう言って、紺野は奏太の記憶にない夜のことを話し始めた。