夏の終わりに見る夢は -04-


 あんな一夜があってからも、紺野は以前と変わらない態度で奏太と接してくれていた。
 休憩にコーヒーをおごってくれることも、残業につき合ってくれることも、トレーナーとしてついてくれた時からずっとよくあること。けれど、それを受け取る奏太の心境は、以前とは変わってしまっていた。
 紺野の親切のひとつひとつがやたらとありがたくて、やたらと嬉しい。
 なかったことにしてほしいと言った当の自分がそんなことでは申し訳ない、と思う気持ちもありながら、ふわふわと浮ついてしまう。
 その上昇があるから、浅井からのメッセージが届くたびに感じる沈降との落差に、奏太は疲弊しきっていた。
「お前、ほんとにちゃんと飯食ってるか?」
 今週だけでももう何度目かという問いかけに、奏太は曖昧に笑った。
「大丈夫です、ちゃんと食ってますよ」
「ほんとかよ? 残業続いてんのがきついのか? もうだいぶ目途は立ってんだろ?」
「はい、今日ももう少しで上がります」
 金曜の夜、フロアはもう皆帰宅して二人きりになった午後九時、ほとんどキータッチの音しか響かない中にまた、携帯のバイブ音が混じった。鳴り始めてすぐに奏太の指が振動を止める。見もしないで放置していると、またしばらくすると携帯が鳴ってまた止める。
 定時を過ぎたあたりから、もうそんなことを何回も繰り返していた。
「……なあ、なんか今日すげぇ携帯鳴ってない? 返さなくていいのか?」
 ふれないでくれていた紺野からついに心配そうに問われて、奏太はまた微笑むだけで携帯をサイレントマナーに切り替えた。
 きりの良いところまで進めて、時刻は九時半。伸びをした紺野がディスプレイの電源を落とした。
「腹減ったな。飯食いに行こうぜ」
「紺野さんのおごりですか?」
「おーおー、紺野さんがおごってやろうじゃんよ」
「やった! ラッキー」
 努めて無邪気に、奏太は紺野と連れ立ってオフィスを後にした。
 食欲はないけれど、紺野とどこに行くかと話していると気分が上向く。会社近くの最近できた定食屋が安くてうまいらしい、という話になって、じゃあそこにしようと会社の玄関を出たところで、呼び止められた。
「奏太!」
 耳慣れた声に、反射的に振り返ってしまう。同時に紺野もその声を振り返っていた。
「……浅井さん」
 こぼれ出た声がひどく頼りなくて自分でも驚く。
 会社前の植え込みの壇に座って奏太を待っていたのだろう浅井が立っていた。
 顔を合わせるのは転職して以来。変わらない、大好きだったスーツ姿。転職して私服勤務になった奏太はやや子どもっぽくて、つき合っていた当時以上の気後れを感じた。
 浅井が、奏太の隣にいる紺野を牽制するように軽く会釈し、紺野は会釈を返して奏太から少し離れた。それを見計らって、浅井が大股で奏太へ歩み寄る。
「そちらの方は?」
 鷹揚な態度で紺野を視線で示されて、奏太はようやく「会社の先輩」とだけ絞り出した。両手の先に震えが来ていた。
 懐かしさと、愛おしさと、悲しさと、嫌悪が、綯い交ぜになって奏太の頭の中はぐちゃぐちゃになる。
「何度も連絡したのに、全然返事寄越さないから。少しでいいから、話す時間をくれないか」
 柔和な口調とは裏腹に、浅井は強引に奏太の手首を掴んで引いた。
 どこかへ連れていかれて二人きりになったら、たぶん自分は浅井に逆らえない。
 その恐怖で咄嗟に奏太は紺野を振り返った。
「待ってくださいよ」
 次の瞬間、紺野は二人の間に入って奏太の手を浅井から引き離させ、強く奏太の肩を抱いていた。
「俺の連れに、何の用すかね」
 受け取る側によっては『友人』という意味しか持たないけれど、浅井相手には『恋人』の意味合いを強く感じさせるであろう「連れ」という呼称を使って、紺野は奏太を引き留めた。
 それほど長くはないが、奇妙な沈黙が三人の間に落ちる。
「……そういうことなの?」
 寄り添う二人を驚いた表情で見つめ、そう問うた浅井に、奏太は言葉なく頷いた。
 事実ではないけれど、そう思わせるよう紺野が芝居を打ってくれたのだから、のらない選択肢はない。
 それを信じたのか信じていないのか、浅井は「そうか、わかった」とだけ言い残し、その場から離れていった。
 浅井の姿が見えなくなり、紺野が抱いていた肩を離すと、はっと我に返って奏太も慌てて紺野から離れた。
 こんなところを紺野の知り合いにでも見られたりしたら。そう思うと握り合わせた指先が冷たくなっていく。
「す、すいません、変な話に巻き込んじゃって」
 最敬礼の角度に頭を下げると、紺野は困ったように顎を掻いた。
「……今の、元カレか何か? つきまとわれたりしてるのか?」
「いえ、つきまといとかってことはないんですけど……」
「でもさっきどっかに連れてかれそうになっただろ。連れてかれたらやばかったんじゃないのか?」
「それは……」
 浅井が奏太をどこへ連れて行こうとしていたのか、連れて行った先で何をしようとしていたのかがわからないので、何とも言えない。けれど何度も断っている復縁要請がこれだけ長く続き、直接会いに来るところまでヒートアップしてしまったあたり、何か腕ずくの行動に出ないとも限らないのは事実だった。
「……さっきみたいなことは、全然俺は気にしないよ。俺が彼氏役することでお前の身の安全が守られるなら、いくらでも協力する」
「そんな、紺野さんにそこまで迷惑は……」
「迷惑なんて思わない。代わりに、俺もちゃんと当事者にしてくれよ。話が分かってないと、俺もこの先お前を守れない」
 さっぱりと言い切られて、奏太は胸がぎゅうっと引き絞られるような痛みを感じた。
 絞られて狭くなったところに、温かいものがパンパンに詰まっていく。
「外でする話でもないな。弁当でも買って、俺んちで食いながら話すか」
 そう言うと紺野はさっさと歩きだし、手近な弁当屋に入っていった。紺野が頼んだものと同じものを注文し、自分の分の袋を渡されるときにほんの少し手が触れあっただけで、さっきまで冷えていたはずの指先に血が廻る。
「飯はちゃんと食えよ。お前最近窶れ過ぎだ」
 紺野の部屋で、見張られるように食べ始めた弁当は、ここ最近の奏太なら半分は食べ残してしまう量だったのに、箸が進んでみるみるうちに減っていく。
 仕事をしていなかった食欲が急に働き方を思い出したかのように、結局奏太はその弁当をものの数分で平らげていた。
「なんだよ、食えるんじゃん。何、お前ただのやせの大食いなの?」
 おかしそうに、優しく笑う紺野に、奏太は胸が痛くなる。急激に紺野に惹かれている自分を自覚して、ひどく困惑した。
 空きっ腹でないなら記憶なくすほど酔わないだろうと、紺野が差し出した缶ビールを二人で開ける。
 奏太は浅井との過去と復縁要請されている現状、受け入れる気はないが強く拒めずにいることを、かいつまんで紺野に話した。
「……俺が口出しすることでもないけど」
 線を引く一言を加えて話す紺野に、奏太は舞い上がっていた自分が一気に消沈していくのを感じ、同時に羞恥でいっぱいになった。
「一度そういう形でダメになった奴とは、戻んない方がいいんじゃないの」
 何か勘違いをしていた。そんな一般論ではなく、紺野が自身の感情で、奏太を強く引き留めてくれるのではないかと。
 紺野は奏太の恋人ではないし、恋人になることもない。彼氏ポジションの物言いを紺野がするはずがないのに、そういう言葉を期待していた自分が恥ずかしかった。
 あの夜のことをなかったことにしてほしいと頼んだのは、自分の方だ。
 尤もな意見に奏太は肯くことしかできず、もう遅いから泊まって行けと言ってくれた紺野の部屋で、なかなか寝付くことができなかった。