週明け、ただでさえ気鬱になりがちな小雨そぼ降る月曜の朝、奏太が恐る恐る出社してみると、隣席の紺野は少し離れたミーティングスペースでおじいちゃん社員たちと打合せをしていた。
「あ、かなたんおはよう」
「おはようございます」
輪の外側にいたおじいちゃんから気さくに挨拶されて、挨拶を返す。輪の内側にいる紺野は話の最中で、奏太の出社には構わなかった。
「で? そのアップデートもできなくなった瀕死のAS400で動いてるのが?」
「LANSAで作ったアプリ」
「うわ、また香ばしいな!」
「そっちの解析はおいちゃんたちが引き受けるからよー。朔ちゃんたちで代替システムの提案してくれない?」
「という話だ。よろしく朔!」
輪の中に社長もいたらしく、最後に明るく紺野の背中を叩いて激励したのは社長の声だった。
「おいコラてめぇ社長」
「『社長』に続く言葉に全然敬意がないよねー」
恨みのこもった紺野の声に朗らかに社長が答え、ミーティングの輪は解かれた。
数枚の資料を手に席に戻ってきた紺野は、しかめっ面で資料をデスクに放る。
「おはようございます。何か新しい案件ですか?」
「おう。ったく、何でもかんでも俺らんとこに振ってきやがって。ほれ」
緊張をひた隠して声をかけた奏太だったが、応じた紺野は至っていつも通りだった。ぞんざいな手つきで、先ほど放った資料を奏太のデスクへ滑らせる。
「……わー、また生きた化石が発掘された感じですね」
「とりあえず来月初めには提案作って初回レビューだ。ちょっと仕事詰まってきてるな。お前キャパ大丈夫か?」
「大丈夫です。今週と来週は残業かな……でも前の会社に比べたら、全然」
定時って何ソレおいしいの、デスマーチ上等、「残業は任意です(してもいいけど手当は出ないよ)」という気質の、IT関連にありがちなブラック企業だった前の職場。それと比べて今の会社はとてもホワイトだ。
もともと紺野の前の職場の先輩だった現社長が、この会社を起業したのが六年前。前職はそれなりに名の通った大企業だったが、こちらも労働環境はかなり黒よりのグレーだったらしい。
まだ三十歳にもなっていなかった社長は、元から独立志向が強かったのもあり、さっさとそんな環境に見切りをつけて今の会社を興したのだそうだ。
この会社が扱うのは、企業で技術移転がうまくいかずに負の遺産と化した古いシステムの運用代行やメンテナンス、そして新しいシステムへの移行提案から開発まで。扱うプログラミング言語も新旧多種多様、必然的に在籍する社員の年齢層も多様となっている。
何十年も前に当時の社内技術者が構築したシステムが、年月を経て樹木のように枝葉を延ばして巨大化した挙句に老朽化し、その間に若手への継承も新システムへの移行も進まないまま、技術者は定年退職、誰も面倒を見られないシステムが取り残される……というのは、経営年数の長い企業ならよくあること。そこに社長は目をつけたのだった。
社員は他の会社で旧システムと一緒にお払い箱にされた技術者や、定年退職者も広く雇用。当然若く技術のある中途退職者も受け入れて、時にはヘッドハンティングすることもある。
社員はそれぞれに得意分野で力を発揮し、他の社員から自分にない技術を教えてもらったりしながらスキルも向上していく。
仕事は、元職場から取ってくることもあるし、実績から話を聞いて依頼してくる企業もある。
価格はそれなりの良心価格で、代わりにいただく納期もそれなり。無茶な納期設定では引き受けないので、基本は残業なし、決して高給ではないが無賃労働もない。
そんな社風なので、みんな穏やかで人間関係も良好、奏太にとっては理想的な職場だった。
そんな会社を興すときに、社長が前の職場から半ば無理やり連れてきたのが紺野だったそうだ。
紺野は『優秀』という一言で片づけるのがやや難しい人材で、業務態度云々は横に置いて、とにかくプログラミング言語をこよなく愛する人である。
古いものから新しいものまで、あらゆる言語を習得することに熱意を燃やし、なおかつ効率的なコーディングを行うことに強いこだわりを持つ。
中学生の時にエクセルでテトリスを作ることにのめりこみ、いかに少ない文字数でコーディングするかを極めようとした時期もあったそうだが、今はそこにはあまり魅力を感じないらしい。
曰く、「読みやすく、わかりやすく、誰が見ても何をやっているか一目瞭然のコードこそ美しい」だそうで、有言実行している紺野のソースは極めて読みやすい。紺野の書いたソースを見ていると、インデントとかコメントの入れ方とか、こんなものにまでセンスって存在するんだな、と思わされる。
奏太は紺野のことをとても尊敬していた。
ただ、やはり何かに突き抜けている人はよそにひずみを持つようで、紺野の恋愛観は独特だった。
「俺の書いたソースを読めない女は無理だ。話が合わん。せめて柚木レベルに読めてくれないと」
いつの飲み会だったか、そう言って周りを引かせていた。
引き合いに出された奏太は最低限のハードルに設定されるほどレベルが低いわけではなく、紺野ほどではないにせよ、複数の言語でプログラムを構築できる程度には長けている。そこを最低ラインと言うのだから、女と長続きしたためしがないと言った紺野の言葉を誰も疑わなかった。
せっかくかなりの長身と、愛想は悪いが整った男らしい造作とに恵まれているうえ、私物のセンスが良くて料理も上手できれい好きと、女受けの権化のような人なのに、だ。
「ITオタク……」
飲み会の隅から聞こえてきた嘆息は、当時紺野に思いを寄せていた経理の女性からだった。一瞬で、自分は無理だ、と悟ったのだろう。数人から「ドンマイ」と声をかけられていて、大変気の毒だった。
紺野がそういう人で、異性愛者であったことから、奏太は紺野を恋愛対象として見たことはなく、これからもないはずだった。
「んー、この間DLL何個かお前に振ったろ。あれ俺が引き取るわ」
「え、あ……ありがとうございます」
こんな紺野の親切もいつものことで、いつもは優しい先輩だなぁくらいの感慨だったのに、週末の出来事のおかげで変に意識してドキドキしてしまう。
せっかく紺野が普段通りに接してくれているのにイカンイカン、と小さく首を振っていると、不意に頭のてっぺんの毛束を引っ張られた。
「雨の日はいつもに増してくるくるしてんな、お前の髪」
いつもいろんな先輩から「柚木のくせにパーマかけて色気づきやがって」とか言われるウェーブヘアを伸ばしながら、めったに見ない優しい笑顔を見せられて、柚木は慌てて椅子ごと後ずさった。
「天パだから仕方ないでしょ!」
言いながら、意識しているときにそんな笑顔は反則だ、と奏太は泣きそうになった。