夏の終わりに見る夢は -02-


 翌日の日曜、奏太は駅近くのカフェに呼び出されていた。店に入ってフロアを見回すと、ショートヘアの美人が手を振っているのを見つけ、急いで駆け寄る。
「奏太さん、おっそい!」
 つややかに表面を磨かれた爪先でテーブルをトントンと叩かれて、頭を下げながら奏太は椅子を引いた。
「ごめんケイちゃん、ゆうべ寝付けなくて寝坊した……」
「もう、僕だって昨日話聞いてから超気になってて、詳しくは明日とか言うからすっごい我慢してたのに! 無駄に早起きした!」
 ご立腹の美人はばっちりメイクの目元を吊り上げ、赤い唇でストローを吸い上げた。
 ケイちゃん、と呼ばれた美人はいわゆる「僕っ子」なわけではなく、ぱっと見では女性にしか見えないが、実は「男の娘」「女装男子」などと呼ばれる類の人間だった。
 いろいろとポリシーがあるらしく、髪はショート、スカートは穿かない、爪は短くネイルも塗らない、だけどメイクはしっかり、を信条とする大学三年生。
 有名大学の法学部で、将来は弁護士になるべくダブルスクールにも通う忙しい身の上だが、今日は奏太の一大事を聞きつけて時間を割いてくれた。
「昔から奏太さんの抜けたところが心配だったけど、まさか酒に飲まれて記憶飛ばしてノンケ男の部屋で全裸でお目覚めとか、ありえなくない?」
「大変面目ない……」
 声を絞って説教したケイと、しおしおと頭を下げる奏太とは、奏太が大学生のときに予備校で講師のバイトをしていた際、高一クラスに通っていたケイと親しくなって以来のつき合いだった。
 ケイはゲイ寄りのバイセクシャルだが、互いに同類の知り合いも多くはなく、年の差を意識せず何でも相談しあえる仲。互いの色恋沙汰はほぼ完全に把握していて隠し事はなく、昨日も事の概要を奏太は既にケイへ報告していた。
「なんで大して酒に強くもないのにさぁ、そんな深酒しちゃったの?」
「うん……憂さ晴らし、だったのかな……」
「憂さって。……まだ悩んでるんだ、復縁要請の件」
「……」
 奏太は答えず、その話題にただ深くため息をついた。
「やっぱりまだ好きなの? あの元カレのこと……」
 実は最近、奏太は前の職場にいた頃につき合っていた元恋人・浅井から、復縁を迫られていた。
 浅井は奏太より三つ年上の二十八歳で、年の近い先輩と奏太は就職してすぐに親しくなり、やがて恋人関係に至った。
 けれどあまり幸せな時間は長続きせず、結局女性と二股をかけられた挙句、結婚を理由に二人は破局。奏太が転職したのは、労働環境の悪さもあるが、この破局も理由としては大きかった。
 奏太がバイセクシャルの恋人から捨てられるのは、それが初めてではない。高校時代に好きになった相手も、他に彼女がいたもののヤラせてくれないとかで、その彼女の代わりに奏太の体を使い、高校卒業とともに連絡も寄越さなくなった。
 そのことがトラウマになって、大学の間は恋愛よりも友人関係を優先して恋人は作らず(女の子からの告白は何度か受けたが)、寂しくも穏やかな四年間を過ごしたのだった。
 そこからの反動だったのか、環境が大きく変わって不安もいっぱいだった社会人一年目、優しく接してくれた浅井に奏太は簡単に心奪われた。
 途中、相手に女性の恋人がいることに気づいてからも、追及することもできないまま関係はだらだらと続いた。
「……よりを戻す気はないよ。ただちょっと、精神的にこたえてるっていうか」
 短期間でこけたように見える奏太の頬を、ケイはやるせなく見つめた。
「僕も復縁はやめた方がいいと思う。これ以上奏太さんが傷つく必要はないよ」
 奏太の浅井とのいきさつも、ケイは詳細を聞いていた。
 精神的に弱く繊細なところがある奏太は、ストレスに晒されるとまず顕著な症状が胃腸に現れ、食欲をなくす。本人もそれを自覚しているから、無理やりにでも食べるように努力はするのだが、さらに悪化すると他の身体症状も出てくる。
 浅井の二股を察知したときは、それが勃起不全という形で現れた。
 浅井との情事で、興奮を表せなくなった自身に奏太は困惑した。泣きながら謝罪し、謝罪を返され、浅井が気をそがれて挿入に至らないまま、ベッドで背を向け合ってただ眠ることもあった。
 自慰はできるのに浅井を相手にすると全然ダメで、つき合いの終盤は二人の間に肉体的な接触はほとんどなくなっていた。
 二人で会う機会は急激に少なくなり、食事に誘われることすらなくなってきた頃に、危惧していた通りに奏太は浅井から別れを告げられた。結婚することになったから、もう会えない、と。
 その頃の奏太の姿を思い出すと、ケイは今でも胸が痛くなる。
 泣いて縋ったけどダメだった、と憔悴した様子で、けれど少しの笑みを浮かべて報告してくれた奏太は、下手なことを言えば簡単に自ら命を絶ってしまうのではないかと不安になるほど生気が希薄だった。
 荒れて酒でも飲んで暴れてくれた方がよっぽどいい、と思うのに奏太は毎日きちんと出社し、生活も荒れず、何の嫌がらせなのか呼ばれた浅井の結婚式にもご祝儀持参で出席した。新婦は同じ会社で奏太の同期だったらしい。
 少し経って奏太が転職したときには、ケイは心から祝福した。少しずつ精神的にも立ち直って、新しい職場で楽しそうに働いている様子を聞いてほっとした。
 そこから二年とちょっと、浮いた話はないけれど穏やかに過ごせていると思っていたのに。
 先週突然、完全に連絡を断っていた浅井から、奏太へ復縁要請の電話がかかってきたという。電話に出ることもためらった奏太だったが、出てしまったことを深く後悔することになる。
 ――離婚が成立した。またお前と、つき合えないかな。
 浅井がそう言ってきたと、奏太から聞いたケイは激怒した。
 奏太がどんな思いで、女と二股かけられていると知りながら浅井とつき合っていたと思っているのか。どんな思いで、浅井と別れたか。浅井の結婚を祝福したか。職場を去ったか。
 柳眉を逆立てたケイを宥める奏太は、ケイの目に、浅井の言葉に随分揺れているように映った。
 ――断ったよ。もう一回つき合うなんて無理だって。
 奏太はそう言っていたけれど、奏太の揺れを浅井も見澄ましたのだろう。それから毎日、浅井からの連絡が続いている。
 そんな状況を聞いていたのに、昨日奏太から『飲み会で飲みすぎて記憶飛ばして、会社の先輩(ノンケ)宅で起きたら全裸だった』というメッセージを受けたときは、ケイは目玉が飛び出るかと思った。
「にしてもさ。その元カレの件でいくら荒れてたって言ってもさ、他の男とワンナイトとか、ほんっとにありえなくない?」
 酒を飲んで暴れた方がまし、とは確かに思ったけれど、本当に実践してまさかそんなことになるなんて。
 話をきっちり元に戻して再度丁寧に糾弾され、詰まる奏太にケイはぐっと顔を寄せて声を落とす。
「……で、どうだったの?」
「な、何が?」
「ナニがよ。相性とか。良かったの? ED治ってた?」
 立て続けに問われて、奏太は両手で顔を覆った。
「覚えてないんだって、何も! どうやってその先輩の家に行ったかも覚えてないんだよ、そっから全部!」
「えぇ~? やっちゃってたら何かしらこう、余韻とか残るもんじゃない?」
「わかんないよっ!」
 奏太が下世話な話を苦手なことを知っていて、わざとケイが煽ったのは心配の裏返しで、こんな軽口で少しでも奏太の気分が浮上すればと思っていた。
 浅井のことがまだ好きなのかと、問うたケイに奏太は答えなかった。よりを戻す気はないと言うけれど、もう好きではないとはまだ言えないのだ。
 二年以上も前に負った傷が、少しも癒えないまままだ奏太の中にある。
 その傷を癒すのが自分であればと、思った時期がケイにはあった。けれど出会った頃からケイは奏太にバイを公言していて、その事実を変えることはできず、ケイは自分の気持ちにそっと蓋をした。
 誰か、奏太を幸せにしてはくれないかと、筋の浮いた奏太の手の甲をケイは見つめた。