夏の終わりに見る夢は -01-


 思い出したくもないのに、繰り返し同じ場面を夢に見る。忘れたい気持ちと裏腹なそれは、まるで記憶に刷り込もうとする自傷行為のようだった。
 目の前には、愛した男の笑みのない横顔。
 ごめん、と伏せられたその目が二度と自分を直視しないことを奏太は知っていて、ああまたこの場面だ、と胸を昏くした。
 悲しみよりも諦めに近く、ついにか、という納得も混ざった心境。その境地へすぐに至ることができる程度には、奏太はいろいろなことに既に気づいてしまっていた。
 男に、自分以外の恋人がいること。その相手が、自分とは違って女性であること。それを奏太が知っていることを、男も気づいているであろうこと。そしていつか自分との関係は清算されるものであることと、それが今であること。
 わかっていても、奏太は縋らずにいられなかった。男が困惑に眉を顰めても、涙を止められない。
 できることなら何でもする。会えるのが半年に一度だと言うならそれでも構わない。だから。
 けれど男は奏太へ背を向け、振り返りもしないで遠ざかる。
 男と奏太との間の地面に音もなく亀裂が走り、もろく崩れて奏太だけが暗い奈落へ落ちていく。
 ――最後まで、お前の本音が見えなかったよ。
 男の呟きが奏太の心臓に楔のように突き刺さり、そのまま奏太は何もできずにただ落下していった。


「……っ!」
 不随意な全身の振動の衝撃で、柚木奏太ゆぎ かなたは一気に夢から醒めた。
 よく見る夢。最後は落ちて、ビクッと体が震えて起きる毎度のパターン。またか、で済ませていつもなら二度寝に直行できるはずが、今日に限っては強烈な違和感に脳まで完全に覚醒した。
(えっ……どこ、ここ……?)
 自宅とは違う天井、違うカーテン、それも見覚えが全くないわけでもないのが余計に奏太をパニックに陥らせた。
 慌てて起き上がり、急な動作で頭がぐわんと痛むのに驚き、はだけた掛布団の下の自分が全裸であることにさらに驚く。
(なななななななんで!? なんで裸? ふ、服は? 頭痛いし、ここどこ!?)
 タオルケットを雑に腰へ巻き付けてベッドを降り、あたふたと見回すと、昨日着ていた衣服がきちんとたたまれてベッド横のテーブルに置かれていた。それに駆け寄って身に着けようとタオルケットを離したところで、背後でガチャリとドアが開いた。
「わーーーーっ!!」
「うおっ」
 完全に錯乱状態の奏太は床に座り込んで慌ててタオルケットで前を隠す。そしてやっとドアを開けた主の顔をまともに直視して、安堵のあまり情けない声を漏らした。
「こ……紺野さん……?」
「うるせーなぁ、声でけぇわバカ。やっと起きたかと思って声掛けに来ただけだよ」
 指し示された時計は昼前をさしていて、他人の家で寝こけるには遠慮の足りない寝過ごしっぷりである。
 迷惑そうに眉間に深い皺を刻んだ紺野の表情はあまりに馴染み深く、ようやく奏太はここを警戒の不要な場として認識した。この部屋が紺野の自宅の寝室ならば、見覚えがあったのも納得がいく。
 紺野朔こんの さくは奏太の職場の先輩で、同じSEで席も隣。二十五歳の奏太より五つ年上で、二年前に奏太が現在の職場へ転職したときから、トレーナーとして直接指導してくれた立場だ。
 紺野も奏太もそれぞれの前職場がブラック企業で、同じ転職組だったこともあって二人はよく気が合った。頻繁に二人で飲みに行く仲だったし、互いの家を行き来することもある。
 それでも寝室に入るような機会はほとんどなかったのだが、共に過ごすLDKからドアを開け放した寝室が見えていることはしょっちゅうだったので、覚えるとはなしに家具などを覚えていたのだろう。
「……はぁ、ここ紺野さんちだったんですね。よかったー」
 紺野に背を向けて下着を穿いて、のほほんと奏太はため息をついた。
「起きたら全然どこだかわかんないし、やっば、ってめっちゃビビりましたよ」
「……は?」
 ジーンズに脚を通しながら奏太が振り向くと、ドアの横で紺野が怪訝そうに顔をしかめていた。
 常時さほど愛想の良い方ではない紺野だが、いつもよりその表情が硬いような気がして、その理由を探るべく奏太は昨夜の記憶を手繰る。
 昨日の金曜は、月初から入ってきた中途採用社員の歓迎会で、奏太も紺野も飲み会に参加していた。
 歓迎する側のはずの奏太だったが、プライベートのストレス蓄積がピークに達して耐え切れず、新入りの近くに寄りもせず、隅の席でさして強くもない酒を呷りまくった……ような気がするところまでは覚えている。
 三十代半ばの若き社長が心配して、途中で何度か声をかけてきた……ような気がするのもなんとなく覚えている。
 が、それ以降のことは曖昧で、何時にその会が終わったのかも、解散後にどうやってこの部屋まで来たのかも、奏太はまるで覚えていなかった。
「昨日、俺そんなに酔ってました? どのくらい飲んだんだったか、全然覚えてなくて」
 呆れ笑いでも引き出そうと、やらかしを自虐する風を装って言ってみたが、紺野の表情は一向に綻ばず、むしろ余計硬くなっていく。
「……柚木。お前、どこから記憶がないんだ?」
 深刻な顔で問われ、ようやく自分のやらかしが、笑って済ませられるものではなさそうなことを悟る。
「え……と、店で飲んでる途中から……ですかね。あ、会計! 俺、会費払ってなかったですか? もしかして紺野さんが立て替えてくれてます?」
「会費は事前に幹事が集めてただろ。飲んでる途中って、お前、ここに来てからのこと全然覚えてないのか?」
「来てからっていうか、どうやってここまで来たんだかも全然……」
 金の話でないなら何をそんなに深刻になっているのかと、考えをめぐらせて、大事なことに思い至った。
 さっき自分は、どんな姿で目を覚ました?
「え――? ちょっと、待って……」
 紺野の姿を見て安心した拍子にうっかり頭から抜け落としていたが、普通に飲みすぎて会社の同僚の部屋に泊まっただけなら、自分は全裸で目覚めたりはしないだろう。
 ということは? どういうことかというと?
 すぅっと、頭から血が降りていく。まだ着ていなかったTシャツを引き寄せて、とりあえずそれでむき出しの胸元だけ隠してみた。
「覚えてないのか……」
 再度肩越しに振り返ると、がっくりと肩を落とした紺野がこめかみを押さえていた。
「俺、まさか昨日、紺野さんと……やっ……?」
「……」
 問う視線を避けて沈黙した、それが答えだった。
「……っちゃった……んですね……」
 口にすると、頭の中で紺野と自分がそのような行為を致している最中の様子が動画再生されたが、瞬時にそれはまぐわうウサギのぬいぐるみ二体の映像へと修正された。脳の回路が物理的にショートしたのか、あるいは精神崩壊の危機を察知して本能的な自主規制が働いたのか。
 とにかく奏太は急いで衣服を身に着け、気まずそうに目をそらしたままの紺野へ向かって床に両手をついた。
 頭には血が廻らず、人間のものではない顔色になっている自覚はあったが、まず紺野へ謝罪しなければと奏太は思った。
「すみません! 俺のせいで不快な思いをさせてしまって、本当に申し訳ありません!!」
 奏太は通常の社会生活の場で、自分がゲイであることを伏せて生きてきた。
 伏せていても気づく同類は気づくのだから、無駄に他人との摩擦を生みたくはない。理解されたいとも思っていないし、公衆の面前で堂々と恋愛を謳歌したいとも思っていない。ひっそりと相手と自分だけの間で関係が成立すればそれでいい。
 だからどれだけ懇意になっても、異性愛者の紺野へ自分の性指向を明かすつもりもなかったし、まさか紺野と性的関係を結びたいなどとは考えたこともなかった。
 それなのに、親しい同僚にゲイバレし、あまつさえ記憶のないまま一夜の過ちを犯してしまったらしい。
 これまで穏便に生きてきた奏太にとって、社会人生命の危機でしかなかった。
 危機回避のためにも、奏太は必死で額を床に打ち付ける。
「おい、柚木……」
「お願いします。今後変な目で見たりしないし、不快な思いもさせないと誓います。これからも一緒に仕事させてもらいたいです。だからどうか、昨夜のことは忘れてください。なかったことにしてください!」
 人生初の深酒で記憶を飛ばした翌日に、人生初の土下座をした奏太を、頭上から眺めて紺野はぽつりと尋ねた。
「もしかして俺今、お前にふられてんのか」
「……はい?」
 問いの意図が読めず、奏太は体を伏せたまま顔だけ上げる。
「酒の勢いだっただけで、ほんとは俺とそんな関係になる気は全然ないってことだろ。なかったことにしろってことは」
「え……いや、あの……仰っている意味がよく……」
 わからないんだけど、と口の中でもごもご呟きながら頭を掻き掻き奏太は上体を起こした。
「だってそもそも、紺野さんの方こそ、完全ノンケじゃないですか。俺とか、全然対象外でしょ」
 言いながら、自分の言葉が針となって奏太の胸をチクリと刺す。
 どれだけ奏太が好きでも、相手から『対象外』のラインを引かれることは経験済みで、そういうものだと奏太も心得ていた。自分を対象外と見ている相手の間合いに入る努力をしたところで、結局徒労に終わる。
 そういう自分を削るだけの行いは、もうしたくないのだ。傷つくのは怖い。
「柚木、」
「あの、すみません、長々とお邪魔しちゃって。俺、もう帰りますね。午後予定入ってたの思い出したんで」
 何か言いかけた紺野を見え透いた嘘で遮って、服の横に置かれていたバッグを掴んで奏太は立ち上がった。途端にまためまいを伴った頭痛に襲われるが、足を踏ん張ってそれに耐える。
「じゃ、お邪魔しました。また週明けに」
 言い置いて、紺野の顔をもうまともに見られないまま玄関へ向かい、靴をつっかけて飛び出した。
 残暑厳しい九月の日差しに真上から射られて、逃げ込む影を探して走り出す。
 ひどい後悔でいっぱいで、残った酒のせいだけじゃなく、胸が悪くなった。