「三島くん、今日は鍋するで」
もう六月も終わりかけで気温も湿度も昇り調子だというのに、金曜の帰りに黛が言った。
「鍋? このくそ暑いのに?」
思い切り顔をしかめた三島を、口を尖らせた黛が覗き込むように見上げる。
「ええやんかぁ。ふるさと納税でちょっとええ肉届いてん。冷凍庫狭いし、早よ食べてまお」
「肉はいいけど、なんで鍋なんだよ。もうちょっと別の料理とかねえのか」
「知らん。俺料理できひんもん。鍋が一番美味しく食える安全な料理や」
なーあーええやろー、と黛は三島のシャツを握って左右にハタハタと揺する。こういう子どもっぽい駄々のようなことを黛はけっこうためらいなくするので、この末っ子的なあざとさに兄貴肌の三島は弱い。
「しょうがねえなぁ。ビール買ってくぞ」
ポンポンと頭に置かれる手を嫌がる様子もなく、黛は嬉しそうに笑った。
「よしゃーぁ。行こ行こ」
鍋の材料は既に買ってあるというので、コンビニに寄って酒などを買うことにする。三島の持つかごに黛は遠慮なくつまみを放り込んでいく。こういう帰宅途中の買い物は、後で二対一くらいの割合で割り勘にする。三島の方が多いのは、給料が三島の方が多いのと、いつも黛の部屋を使っているからだ。
黛の家に着き、二人で台所に立つ。三島もほとんど自炊はしないが、料理のできなさは黛の方が上で、包丁を握る手の危なっかしさを見て早々に三島が代わった。
「なぁ、野菜切るのめんどくせえわ。肉焼くだけでいんじゃね?」
「えー、せっかく材料買ってんからもうちょっと頑張ろうや」
冷蔵庫から出した食材を渡すだけの黛に説得され、三島はしぶしぶ野菜を切り続ける。その途中で、部屋に電話の着信音が響いた。
「……? 三島くんちゃう?」
「あ、俺か。ちょっと手ぇ塞がってる、鞄から出してきて」
「ほいほい、ほい」
頼まれた黛が、鳴り続ける携帯を三島の鞄から取り出す。そのディスプレイを見て、怪訝に眉を寄せた。
「『セ2』……さん、やて」
読み上げられて、三島は動揺して手を止める。
携帯はずっと、鳴り続けている。
「……あぁ、セフレの二番目、てことか。雑な登録名やな」
あっさり解読した黛が、三島の前に携帯を差し出した。
「出たりぃな」
雑な登録名が表示された携帯を前に、三島はとりあえず手を洗って、そっと終話ボタンを押す。着信音が止まった携帯は、けれど間を置かず再び鳴り出した。
「出たらええやん」
沈着冷静な黛の声。三島の背に冷たいものが流れる。
いや、実際疚しいことはないのだ。相手は確かにセフレの二番目だが、黛とつき合い始めて以降、一度も連絡を取っていない。むしろ連絡を取らなすぎて存在を忘れていたので、清算することも失念していた。
それなのになんでこのタイミングで電話をかけてくるんだ、と内心で八つ当たりしながら、もう無視するわけにもいかず、三島はやむなく受話ボタンを押す。
『あーっ、やっと出た! タカヒロ、最近全然遊んでくんないじゃん! 久しぶりにヤろーよー!』
挨拶も前置きもなく喋り出した相手の声は、スピーカーにしているわけでもないのに無駄に大きく、静かな部屋に響いて黛の耳にも入ってしまう。慌てて三島は受話音量を下げるも、本題の提示は通話開始からものの五秒で既に済んでいた。
「おまえ、バカ、酔ってんのか。いきなりそんな話するやつがあるかっ」
キッチンからベランダへ移動しながらひそひそと怒ってはみるが、いつも第一声に「おう暇か、ヤろうぜ」と電話をかけていた三島に咎める権利はどこにもない。
『誰も捕まんなくてさぁ、超欲求不満―。今からいつものラブホでど?』
「行かねえ。てか今後も行かねえから。もう連絡してくんな」
『え、なに、タカヒロ彼氏でもできちゃったの?』
「そーだよ!」
『うっそ、マジか、タカヒロのくせに? 超ウケる』
「うるせえな、一生ウケてろ。とにかくマジで、もう連絡してくんなよ」
『はいはーい。また別れて暇になったら連絡ちょうだいねー』
長続きするとは微塵も思っていない様子で縁起でもないことを言った元セフレの二番目に歯を剥いて電話を終えて、部屋の中に戻ると、三島に代わって野菜を切っていた黛が菩薩のような笑みで首だけこちらを向いた。
「呼び出し?」
「あ、いや……」
「鍋はまたできるし、行っておいでぇや」
何でもないことのように言う黛に、驚いた三島の口が開く。
「な……行かねえよ。行くわけないだろ」
「なんで?」
「なんでって、そんな、行っていいのかよ」
「いいに決まってるやん」
黛は穏やかな笑みを貼りつけたまま、包丁を置いて三島に向き直った。
「つき合うてるわけじゃなし、俺が止める理由もないやん」
「は?」
つき合ってるわけじゃない?
黛の口から飛び出した初耳の見解に、一瞬三島は頭が真っ白になる。
「俺は、つき合ってるつもりでいたけど」
それが勘違いならばあまりに間抜けな発言に、黛は可笑しそうに吹き出した。
「うそやん。ないやろそれは」
あり得ない、という調子で一蹴されて、三島の動揺は大きくなる。
「けどおまえ、俺の傍にいるって言っただろ。俺がそうしろって言うなら、って」
「言ったよ。やから傍におるやん。ほとんど毎週一緒に過ごしとる。なーんもしてやれんと、ただ一緒におる。こんなんをつき合うとるって言うんか?」
強い口調の反問。黛の表情から笑みが消えた。
「キスもセックスもせん。それが傍にいるって言うたときの約束や。ちゃんと履行されとる。けどそんな関係、恋人なんて呼ぶようなもんとちゃうんやで、知っとるか。お友達って言うねんで」
言い募るうち、黛の眼が涙の膜に覆われていく。
「俺と一緒におったかて、三島くんはなんも発散できひん。それやのにセフレと会うのを止めるとか、そんなん俺にできるわけがないやん。そんなんやのに、三島くんとつき合いたいなんて、俺よう言われへん……!」
眼球を覆っていた膜が粒となり、瞼からこぼれる。それを、すぐに黛の腕が隠して拭き取ってしまった。
その涙の理由――黛は、後ろめたかったのだろう。
三島は、何をせずとも黛の傍にいられればそれでいいと、本気で思っていた。それはあのとき、黛にも伝えたはずだ。
けれど三島が性に奔放なたちであることは事実だし、こうして黛と過ごすようになっていなければ、今も呼び出しに応じて出掛けていたかもしれない。
それに、三島自身も疑問に思っていた。同性同士の性愛を伴わない関係を、恋愛と呼べるのか否か。
その価値観はきっと黛も似たものを持っていて、三島は結論を棚上げしてきたが、彼は否と結論づけたのだ。その原因をセックスできない自分のせいにして。
それがわかった瞬間、三島の体は動いていた。
涙を拭う腕を取って、引き寄せる。驚いて顔を上げた黛のくちびるに、考えるよりも先に自らのくちびるを重ねていた。
「――……っ!?」
口づけたまま、お互い目を見開いて数秒見つめ合う。至近距離すぎて、ピントは合わない。
そしてやっと、三島は自分の行動を自覚してくちびるを離した。
「……あ。悪い。同意もないのに」
黛の腕を掴んだまま、三島は呆然ととりあえず謝罪する。された黛より、三島の方が動転していた。
「嫌だったか」
自分は同意なくされたキスをトラウマとして抱えているのに、同じことを黛に強いたことに気付いて血の気が引く。
「ほんと申し訳ない、悪かった」
「う、ううん、嫌やない。嫌やないけど……三島くんの方が嫌やったんじゃ……」
困惑しながら、黛は三島を気遣う。けれど嫌だったのではと問い返されて、三島はおや、と視線を斜め上に向けた。
「……ん? ……嫌、じゃないな」
女子大生からされたことを思い出す度に沸き上がっていたあの不快感を、なぜだか全く感じない。そもそも自分からしておいて嫌も何もないというものではあるが、どうやら黛とのキスは、過去のトラウマを呼び起こすものではないらしい。
ということは。
「なんか、おまえとはキスできる」
「え……」
「友達とキスはしねえだろ」
不機嫌な顔でそんなことを言う三島の真意が伝わったようで、けれど信じられない思いの黛はまだ濡れた瞳を小さく揺らめかせる。
そうして三島はやっと腹を括った。言わなくてもわかるだろとか、告白なんて柄じゃないとか、そう思ってきた結果が今回のこの行き違いだ。まったく、糸井や糸川のことをどうこう言えた立場ではない。
「俺は……」
とても口はばったく、眉を寄せて三島は口を開く。
「俺はおまえを、喜ばせてやりたいとか、不安をなくしてやりたいとか、そういう相手だと思ってる。……それはもしかしたら、好きってことなのかもしれん」
曖昧な、その拙い告白みたいなものは、三島の人となりを理解し始めている黛にはそれなりにちゃんと響き、じわじわと頬を赤く染めた。
咀嚼のためにしばらく時間を要した黛は、俯いてもじもじと目元をこすって、それから三島を見上げてはにかむ。
「俺、三島くんにキスしてええん?」
それは、自分は三島にとって特別な存在になれたのかという、黛からの確認を兼ねた問いかけで。
拙いながらちゃんと届いたんだな、と安堵した三島も眉間の皺を緩めた。
「……おまえならいいよ」
頷いて、三島は小さく両腕を開く。その間へ黛は自ら歩みを進めて収まり、初めてまともな抱擁を交わした二人は、もう一度触れるだけのキスをした。
<END>