黛とつき合うことになった。
まさかそんなことになろうとは。誰かと恋愛関係になることを望んだことなどついぞなかった三島は、自分で自分の言動に驚いていた。
ずっと傍にいろ、なんてことを言ったのは完全に勢いだ。いつでも心細そうな顔をして、成果のなかなか見えない業務に懸命に向き合って、幸せになりたいと言いながらすっかり諦めてしまっているあの男。黛奈月。あいつを見ているとなんだか調子が狂う。
頑張りすぎなくらいに仕事は頑張っている。周りの力を借りながら、素直に頼るところは頼りながら、弱気になりつつも自力で踏ん張ろうという気概も感じさせ、上司としては応援したくなるし手も貸してやりたくなる。
最初はそれだけだった。不憫ないきさつで慣れない東京に異動してきて、前向きに仕事に当たってくれる新人くん。
でも接する機会が増えるうち、上司としてではない感情が三島の中に芽生えてきた。一言でいうと、庇護欲が溢れて仕方がないのだ。
昔から、口も態度も悪いことは自覚している。なのに周りから頼りにされることが多い。それはたぶん、三島がなんだかんだで困っている者を捨て置けない性格だからだ。
人助けをしたいなんて思っちゃいない。でも躓いている人間がいたら助け起こしたくなってしまう。踞っている姿にイライラして、何やってんだ要領悪ぃなと悪態をつきながらも、助けてやった相手がきちんと起き上がれたらそれに安心してしまう。
損な性分かもしれない。しかし部長から管理者向きだと言われたところを見ると、出世には向いているのかもしれない。であれば悪いことでもない。人生において仕事と金は重要なので。
それにしたって黛は部下だ。こんな近場で同性の部下とややこしい関係になるのはデメリットしかない。そもそも黛は最初からセックスができないと自己申告していた。それは黛側から引いた、互いを恋愛対象にしないための一線だった。
なのに、気付けば線を踏み越えて口説いているのは自分の方だった。キスもセックスもしなくたって傍にいることはできるだろうって、なんだそりゃ、どんだけ必死だよダサすぎんだろ俺。
結局黛は三島に押し切られてくれた様子で、なぜだか固い握手を交わし、翌日からこのくそ忙しいのに二日も会社を休みやがった。看病しに行こうにも、三島は黛の仕事の穴埋めで連日残業である。
その後元気そうな様子で復帰してくれたので安心した。以前と変わらず黛は仕事に一生懸命で、その姿はとても好ましい。
しかしなんだか、いや何も問題はないのだが、以前と変わりがなさすぎて、三島は少々この現状についての理解に自信がなくなってきていた。
あれ以来、週末は黛と過ごすことが増えた。金曜の仕事終わりに夕食を一緒に食べて、それから黛の部屋で宅飲みをしながら、日々のどうでもいい話や時々は仕事の話なんかをして、眠くなったら寝る。黛はベッドで、三島は客用の布団を借りる。同じ布団で寝たりしたら手を出してしまいそうなので、必ず三島は自ら布団を敷く。
当初の話通り、二人はキスもセックスもしない。たまにはハグくらい、と思って手を伸ばしかけるが、二人きりの密室で距離が狭まると黛の体が緊張にこわばるのがわかるので、あまりやたらな接近もしない。そこは三島も理解しているので、多少下半身に不都合はあるものの、それでいい。
が、果たしてこれは、つき合っていると言えるのか?
性愛を伴わない同性同士の恋愛とは、成立するものなのだろうか。そもそも恋愛とはどういったものなのか。
わからないので、三島は手っ取り早く経験者に訊くことにした。
「いーといっ」
駅を出たところで、前方に見つけた見知った後ろ姿に声をかける。
「……」
黙って半身だけ振り返った表情には露骨に『またか』と書いてあって、かわいくねぇなと思いつつも面白くなって三島はその隣に並んだ。
「最近よく会うな。おまえも帰り遅いけど、仕事忙しいのか」
糸川と別れた話を聞いた年度末からこちら、半月に一度ほど帰宅の時間が合って、見かけると三島は糸井に声をかけていた。
「ん。……ああ、うん。そう、繁忙期」
一瞬三島を凝視して、そっと視線を逃がした糸井の仕草に、三島は何かを隠されたことを感じ取った。
糸井は昔からこういうところがある。自分なりにいろいろ考えて思慮深くあるつもりなのだろうが、考えすぎるあまりに言うべきことも言えないで内に籠ってしまう。
長くともに過ごすうちに三島はいつの間にかそれを察するのに長けてしまっていたが、糸井が何を隠そうがそれを暴くのもフォローするのも自分の役目ではないと思っているので、何も触れることなくスルーする。
「おまえ、あれっきり糸川とは別れたままなの?」
「……そうだけど」
「新しい相手とかいないわけ?」
「……え?」
「よく言うじゃん。前の恋愛忘れるには新しい恋愛だとか」
「あ……」
思ってもみなかった、という顔で糸井は目を丸くする。そしてやや焦ったように、三島に顔を寄せて声を潜める。
「い、糸川さんは、もうそういう人がいるのかな……」
その表情は、そうだったら困るとも、そうであってほしいとも、どちらもがない交ぜになったような複雑さで。そして自分は新たな恋愛など考えもつかなかったという様子で、要するにこいつは未だに糸川を引きずって、あいつ以外眼中にないわけだ。
「知らね。フロア違うから全然会わないしな。まあ、あいつもこの春から新任管理職になって忙しくしてるだろうから、あんまそんな暇もねえんじゃねえの」
フォローするつもりもなくただ事実だけを伝えると、糸井はほっとした内心を隠すように、神妙にくちびるを引き結んだ。
変なやつ、変なやつらだと思う。お互いに好き合っているのに、なんで別れたりするんだろう。好きなら一緒にいりゃいいのに。相手のためにとか、自分といると良くないとか、そういう発想は三島には全く理解ができない。
それはもしかして、俺が恋愛ってものを理解できてないせいなんだろうか?
「なあ」
もしそうなら、今後の黛との関係のために、もう少し学んでおかなければならないのかもしれない。
「『つき合う』って、どういうことだ?」
唐突に問うた三島を、驚いた顔で糸井は見返す。
「それは……三島さんには縁がない話なんじゃないの」
嫌味とかではなく、純粋な感想として糸井はさらりと暴言を吐いた。
何てこと言うんだ、俺だって人間だぞ。いや、そりゃ確かに、この年までまともにつき合った経験もなく肉体関係ばかりを積み重ねてはきたけども。
「それがなぁ……縁ができたんだよ」
口はばったく後ろ首を掻いた三島に、糸井は目を真ん丸にする。
「えっ、三島さんに好きな人ができたってこと?」
「好き?」
「え、だっておつき合いする人ができたってことなんでしょ?」
「まあ……そうな」
「三島さんって恋愛感情とか持ってたんだ!?」
「うるせえな! おまえさっきからまあまあ失礼なこと言ってるからな」
「あー、ごめんなさい、それは。いやちょっと、意外すぎたもんだから」
そう言って頭を下げて、糸井は自嘲気味に苦笑いを浮かべた。
「けど、それを俺に聞くのは間違ってない? うまくつき合えなかった結果がコレだよ。その質問に答えるには不適任すぎるでしょ」
「……確かに」
「ははっ、即肯定も傷つくー」
「面倒くせえやつ」
「知ってる」
ふふ、と明るく笑って、糸井は興味津々な上目で見上げてくる。
「ねえ、どうして誰ともつき合う気ないって言ってた気が変わったの?」
訊かれ、三島はふと考えた。決め手は何だったんだっけ。
結果的に三島の方が交際を迫った形にはなったけれど、ずっと、三島は黛が助けを求めているように感じていた。だから三島は黛を助けたいと思って手を差しのべたし、その手を黛は素直に受け取った。
「……求められたから」
それ以上でも以下でもないと、たったそれだけを理由に挙げた三島に、糸井はふっと目を細めた。
「三島さんらしいね」
長いセフレ関係の中で、三島が糸井の本質を理解しているように、糸井も三島を理解している。三島が、乞われれば応えようとする性質であること。だから糸井も、自分が乞えば三島が応えるであろうことはわかっていたはずだ。
でも糸井は三島に声を上げなかった。最初から諦めて。求めようともしなかった。
三島は糸井に腹を立てていた。本当は糸井に応えてやることだってできたのに、それをさせてくれなかったことに。その任を与えてくれなかったことに。諦めた顔をして、その実相手を見くびっていたことに。
「おまえが糸川とうまくつき合えなかったのは」
だから今も腹が立っている。糸井が糸川を求めようとしなかったことに。
「おまえが糸川に自分の望みを言えなかったからだ」
好いた相手に自分の希望を素直に伝えてもいいのだということを、それが信頼というものだということを、いつになったらこいつは覚えるんだろうか。覚えない、覚えようとしない頑なさを、いつまで過去の記憶喪失のせいにし続けるつもりなのか。
「幸せになりたいなら、幸せになろうとしろ。少なくとも糸川は、おまえと幸せになりたかった。その手を離したのはおまえだろ」
三島の放った矢のような言葉を、糸井は真正面から食らって、一瞬表情をなくす。
けれど揺らいだ瞳はすぐに凪いで、糸井は悲しげにただ笑った。
「……うん。その通りだ」
自分の情が糸井に届いたとは、三島には思えなかった。
本当は、さっさと糸川とよりを戻せと、説教臭く言ってしまいたい。でも、そんなことを言ったところで糸井には響かないのだろうと、三島は無駄な労力をかけるのが馬鹿馬鹿しくなってしまった。