黛奈月の事情 -06-


 それからも黛の仕事が順調に回り出すなんてことはなく、噛み合わない歯車を三島に調整してもらってなんとか回していくという日々が続いた。
 それでも少し変化があったのは、プロジェクトグループ内のメンバーから支援を得られるようになったことだ。
 異なる仕事のやり方を擦り合わせて一本化していく作業に難航しているのは他のメンバーも同様で、大阪のやり方に倣うべきところがあるかを相談する先として黛は信頼され、徐々にその存在が役立ってきている。
「黛くんの意見のお陰で整合できたよ」
 そんな風に黛は感謝され、同じようにメンバーが助けてくれることも増えてきた。相変わらず進捗具合は亀の歩みだが、少しずつでも進めていくより他にない。
 今日も例に漏れず残業となり、二十一時が近くなったところで三島からストップをかけられた。
「黛、おまえもう帰れ。なんか顔色悪いぞ。体調悪いんじゃねえのか」
 指摘されて初めて、そういえばそうかも、と省みる。
 このところ帰ったら着替えもせずにソファーで寝こけて朝を迎え、急いでシャワーを浴びて食事もとらずに家を出て、昼食だけはしっかりとるものの、夕食は残業中にコンビニおにぎりとエナジードリンクで済ませたりしていた。お世辞にも良い食生活を送っているとはいえない状況だ。
 毎朝しんどいのが当たり前になっていて、それでも仕事を休むという頭がなかった。今が仕事の頑張り時で、休めば他のメンバーにも迷惑をかけることになるという思いで精一杯気を張っていたのだ。
 けれど顔色が悪いと外から指摘されてしまうと、急に張り詰めていたものが緩んだのか、背中にどっと誰かが覆い被さってきたような重さを感じる。それが何か、ぼんやり黛は思い出した。体調不良ってやつだ。
「すいません……今日は帰ります」
「あ、ちょっと待ってろ、俺も一緒に」
 慌てて自分も帰り支度をしようとする三島を、黛はてのひらで制した。三島とは自宅が同じ沿線だが、未成年者と保護者でもあるまいし、わざわざ一緒に帰ってもらうほどのことはない。
「一人で帰れます、大丈夫ですよ」
 パソコンをしまって立ち上がると、貧血を起こしたように頭がくらくらした。これはまずいかもしれない。早く帰って、きちんと布団で休養しなければ。
 会社を出て、駅に向かう。その足取りが確かなものだったか、黛はよく覚えていない。自分の方からよろけてぶつかりに行ったのかもしれない。
「あっ、すいません!」
 どんっ、と対向してくる歩行者とぶつかった衝撃で、黛は尻餅をつき、その背中を街灯の柱に打ち付けた。同じタイミングで、黛の真横を通ったトラックがパァンとクラクションを鳴らした。
 衝撃と、痛みと、突然の大きな音。それらがたまたま重なったその瞬間、どっと脈が大きく打って、黛は体を動かせなくなった。
「あの、大丈夫ですか……?」
 近くで女性の声がする。聞こえているのだけど、反応できない。
 道端で小さく体を丸めた自分の姿を俯瞰する感覚に、黛は絶望した。また離人症状だ。
 東京に来て、暴力を振るわれることがなくなれば、この症状ももう出なくなるものだと思っていた。でも実際は、こんな些細なきっかけでも誘発されてしまう。トラウマによって発症しやすくなってしまったのかもしれない。
 元彼から逃げても、大阪から逃げても、結局もう不幸の呪縛からは逃れられないんじゃないか。ただ誰かと穏やかに想い合いたいというささやかな望みすら、この先叶うことはないんじゃないか。
 そう思いかけたとき。
「黛!」
 その一声で、ばちっと、黛の意識は明瞭化した。
「あ、すいません、私そいつの上司です。部下がご迷惑をおかけしまして。ありがとうございます」
 見上げた先で、どうやら介抱してくれていた女性に代わって、三島が傍にしゃがみこんでくる。
「何やってんだおまえ。立てるか」
「三島くん……」
 手を借りて立ち上がって、二人で建物の陰に移動した。
「あーもう、いい年して道端に寝てんじゃないよ」
 呆れたように三島は、黛のスラックスについた砂を払ってくれる。
 されるがままになりながら、黛は大変に驚いていた。
 今まで何度も離人症状が出てきたが、いつもは時間経過で自然と回復するのを待っていた。さっきのように、名を呼ばれて一瞬で覚醒したことはない。
 呼び戻された、という確かな感覚があった。三島の声に。
「……なんだよ」
 驚きのあまりに目が離せず、じっと三島を見つめていたら、気づいた彼が怪訝そうに眉を上げる。そうして盛大にため息をつきながら、「糸川が気にかけてた気持ちがわかるわ……」と呟いた。
「なんかおまえ、心配になるんだよ。頼むから俺の目の届くところにいてくれ」
 そう言われ、意味が分からず首を傾げたら、やや乱暴に腕を引き寄せられた。
「ずっと俺の傍にいろって言ってんの」
 やけに近いところから響く低い声と、背を抱かれたあたたかい感触。
 まさかこれは抱きしめられた挙げ句に口説かれている状況なのかと、気づいた黛は慌てて三島から体を離した。
「で、でも俺、三島くんとセックスできひん」
 黛にしてみればそれが最大の懸念で、そういう自分を三島が傍に置くメリットがあるとは少しも思えない。なのでそれは、以前戯れに三島が彼氏になってやろうかなんて言い出したときに言っておいたはずではないかと、黛は辞退の理由を繰り返す。
 けれど三島は、握った黛の手を離さなかった。
「それは前に聞いた。俺だってキスは嫌だって言ったろ」
「……う、うん」
「けど、キスもセックスもしなくたって、傍にいることはできるだろ」
「……え?」
 そうなんか? ほんまにそうなんか?
 ぐるぐる考えても、黛には全然わからない。
「それは、そう……できる、かもしれません、ね……?」
 わからないので、どんどん首が傾いで、体ごと斜めに沈んでいく。
 三島の意図はどういうことなのか。キスもしない、セックスもしない、それでも傍にいて自分を守ってくれるという、その自分にばかり都合の良い関係は何なのだ。三島はいったい何をどうしたいのだ。
 相手の意向を汲むのは得意な方だと思っていたのに、三島の言いたいことが全く理解できない。
(……そ、そんなん……)
 考えて考えて考え抜くうちに、ぷすん、とポジティブな状況に慣れない思考回路が短絡した。
(お友達になりましょうゆうことやねんな!)
 そして短絡したまま出した答えに納得して、黛は三島に握られた手を固く両手で握り返した。
「わかった! 三島くんがほんまにそれでええんやったら俺も三島くんに傍におってほしい! そん代わり、俺も何か力になれることがあったら遠慮のう言うてや!」
「え、あぁ……」
 いきなり前のめりになった黛の勢いに、三島も若干たじろぐ。しかし勢い任せの黛の黒目は、盛大に四方へ泳いでいた。
「ほなよろしゅう!」
 とりあえず笑とけ、とばかりに三島の背を叩いて握手を解いた黛だったが、内心はこの対応で良かったのかどうなのか、模範解答のわからない答え合わせを始めてしまって気が気でない。
 当たり障りのない会話で駅までの道のりを繋ぎ、同じ電車に乗って三島の降車駅を迎えたが、別れたとたん、限界を迎えた脳が熱暴走した。そういえば忘れていた、体調不良。
 なんとか自宅までたどり着いたものの、そこから二日、冷めない熱に魘された黛だった。


<END>