黛奈月の事情 -05-


 上司がセクハラ発言してきたんです。
 そう人事に訴えれば三島を降格に追いやることができるかもしれないが、そんなことを考えていられないほどに、仕事面で黛は三島に助けられ過ぎていた。
 新年度を迎えても相変わらず黛の仕事の進みは捗々しくなく、ひとつの業務プロセス変更の了承を得るにもかなりの時間を要してしまう。あまりに計画からの遅延が生じ、やむなく三島に相談し、その三島が状況を打開してくれる、という繰り返しだ。
 上司としての三島は本当に頼りになる。尊敬しているし、男として憧れる。素直に素敵だと思うし、複数人のセフレを擁しているという私生活を知らなければ普通に惹かれていたかもしれない。
 しかし実際は、失恋して傷心中の糸川を狙ってみろとか、そうでないなら俺と遊ぶかとか、悪趣味な冗談を平気で吐ける人だ。そしてそういうことを言っても良い相手だと思われてしまっているということ。
 三島になめられたくない。仕事で認められていないからあんな軽口を叩かれるのだ。
 なんとか自力で担当範囲の進捗を図らなければ、と黛は焦っていた。今日も今日とて、翌日の全体会議の前に設計部署の課長の元へ事前説明に上がる。
「それで、このシステムへのインプット情報として、今流し込んでるCSVの情報にこの三項目を追加していただきたくて」
 変更内容を聞くなり、反対派筆頭の後藤課長は歪んだ眉を跳ね上げた。
「はぁ!? それは量産技術のメンバーが他の検索システムから取ってきてる情報じゃない。なんでうちからのデータに入れなきゃいけないの」
「その、東京では量産技術マターになってるんですが、これって大阪では設計側で付加してる情報なんです。設計の方が精度の高い情報を持ってるはずですし、量産技術で一件ずつ確認しながら入れていくっていうのも効率が悪いんで」
「そんなこと言ったって、結局うちの工数が増えるわけだろ。人数も増えりゃしないのに」
「そこは全体最適で要員の調整も入りますから……」
 宥める声は聞く気もないのか、言葉の途中で課長は舌打ちをし、これ見よがしにため息をつく。
「きみねぇ。ことあるごとに大阪では、大阪では、って。そんなに東京のやり方に不満があるなら大阪に帰ったらどうだい」
 そして黛をじとりと睨んで、席を立っていった。
(……またあかんかった)
 システム概要図を手に、肩を落として黛は自室に戻る廊下をとぼとぼと歩く。
 事前に了承を得て全体会議を円滑に進められたらと思ったのに、逆に怒らせてしまった。明日はまた紛糾してしまうのだろうか。三島はその辺りも丸くおさめるのが上手いのだが、結局またその手腕に頼るだけになってしまうのか。
 まっすぐ自席に戻る気になれず、途中の給湯室内の自販機に立ち寄る。コーヒーを買って顔を上げると、給湯室の入り口に設計課の男性社員が二人立っていた。おそらく黛より五年ほど年嵩の社員たち。
「黛さん、うちの課長がでかい声でやなこと言ってごめんね?」
 先程のやり取りを聞いていたらしい。言葉面は親切そうなことを言っているが、その表情はどこか面白がっているように見える。
「大阪に帰れ、なんて、ねぇ。大阪にいられなくなったからこっちに来たんでしょ?」
 二人は口元に薄ら笑いを浮かべて、黛の近くに歩み寄ってきた。
「大阪の同期から聞いたんだけどさ……黛さんって、ゲイのストーカーから暴行されてヤられちゃったってホント?」
 気遣いなのか何なのか、声のボリュームを絞った質問。
 問われた瞬間、全身からさぁっと血が引いていくのを感じた。
 思い出さないようにしていた、あの日の暴力がフラッシュバックする。
 振り下ろされる拳。眼前に迫る靴裏。動かせない体。固くて冷たい夜の地面の感触。その状況をどうにもできない、絶望的な無力感。
「本当だったら、そりゃ大阪になんか戻れないよね」
「こっちにいたって仕事できないのに、お気の毒にー」
 悪意しかない揶揄を、黛は黙って聞いていた。俯いたまま声も出ない。
 ゲイのストーカーから暴行されて強姦されたのも、仕事ができないのも事実でしかない。何も言い返せない。
 と、黙っていたら給湯室の入り口から「ちょっとー」と間延びした声がかかった。
「うちの黛の根も葉もない噂流すのやめてくれません? 迷惑なんですけど」
 顔を上げると、距離を詰めてきていた二人の後ろに三島が立っていた。
「そういうこと言う人がいるから、黛の話をまともに聞いてもらえなくなるんすよ。黛は大阪の業務プロセスをよくわかってる大事な戦力ですし、強引に進めようとしないでちゃんと合意形成図ろうとしてんですから、現状維持にしがみついて聞く耳持たない連中よりよっぽど仕事してんすよね。見ててわかりません? 米田さんに堺さん」
 両手をポケットに突っ込んだ三島は柄も機嫌も大層悪く、名指しされた二人は表情を変える。やばい、と見合わせた顔に愛想笑いを浮かべて、そそくさと給湯室から出ていった。
 やれやれ、と首を鳴らして、三島は自販機でコーヒーを買う。
「業務妨害だよな。ったく」
 怒ってくれている三島の声がしっくりと耳に届いて、足元に落ちきっていた血液が体内を巡り始める。危険は去ったと理解ができて、ようよう黛は頭を下げた。
「……ありがとう」
「感謝されることじゃねえわ。評価してる部下を馬鹿にされたら、上司としちゃ腹も立つんだよ」
「全部図星やったけど」
「何がだよ、あんなもん全否定一択だろ」
 休憩行こうぜ、と促されて黛は三島と一緒に隣の休憩所に移る。西日の当たる部屋には他に誰もいなかった。
「またええタイミングで入ってきてくれはって」
 少し穿った言い方をした黛に、三島は笑う。
「言っとくけど俺の方が先にあの部屋にいたんだぞ。後藤さんがなんか大声でやいやい言い出したと思って見たら、言われてんのおまえじゃん。ほんでへこんでそうだったから励ましてやろうと思って追っかけたら、また別のに絡まれてんじゃん。どんだけ絡まれ体質だよって。どこで出ていこうかタイミングはかっちゃったよね」
 コーヒーの缶を開けながら、黛もようやくこわばった表情を緩めて笑う。
「完璧なタイミングやったね。正義のヒーローみたいやった。惚れてまうやん」
 冗談を口にした黛に、ふと、三島はまっすぐな視線を向けた。
「……守ってやろうか」
「え……?」
「おまえが必要だって言うなら。上司としてはもちろんだけど、彼氏にでもなってやろうか」
「……」
 先日の定食屋での冗談の続きかと、一瞬黛は疑った。けれど、口元に笑みを浮かべてはいるものの、三島の眼差しに揶揄の色はない。
 自分が三島を必要とすれば、彼はそれを叶えてくれるのかもしれない。
 なぜかすんなりとそう信じることができたけれど、同時にそれは無理だと、黛の中でその可能性がぱたりと閉じる。
「俺は、三島くんの彼氏にはなられへんなぁ」
 だって、相手はセフレを何人も抱える三島だ。
「……セックス、もう怖くてできひんもん」
 言ってしまって、情けな、と小さく呟く。
 あの一件以来、性的な欲求の一切が黛から抜け落ちている。考えることも恐ろしくて避けてきた。たぶん、今誰かに性的な関係を求められたとしても、黛は応えることなどできないだろう。
 自分は三島とつき合うことはおろか、遊び相手にすらなれない。三島に助けてもらう一方で、何の役にも立てない。
 それがわかっていて、黛はこれ以上三島に甘えることはできなかった。
「……トラウマ、なんだよな」
 俯いた黛の横で、三島はコーヒーを一口飲み下す。
「情けないことはないだろ。それだけのことがあったんだから、無理もないさ。俺だって、そんな大層な理由はないけど、トラウマあるぞ」
「え……」
 三島が何かトラウマを抱えているとはちょっとイメージがつかず、興味を引かれてしまって黛は顔を上げた。
「聞く?」
 他人のトラウマ話を好奇心で聞こうなどとは悪趣味も甚だしい。けれどあまりに気軽に三島が尋ねてきたので、思わず黛は頷いてしまった。
「俺はねぇ、キスがダメなの。あと女」
 あけすけに言って、三島は苦笑する。
「高一の時に、個別指導の女子大生講師に、いきなりキスされて。同意もなく、『カワイイ』とか言われてさ。脈絡もねえし、べつに俺はその女のこと好きでもねえし、なんか気持ち悪いことされたって感覚しかなくて……」
 そのときの感覚を思い出すのか、三島は眉を強く寄せた。
「で、親には言えずに、同級生に相談したの。そしたら、同情されるどころか、全員羨ましがるわけ。年上のお姉さんとキスできるなんてラッキーだとか、イケメンの役得自慢かとか、なんか嫌がってる俺の方がおかしいみたいな空気になってさ。それがなんか、……キツくて。逆だったらさ、男子大学生が女子高生にいきなりキスしたらさ、それって性暴力じゃん。ラッキーなんてことにはなんないじゃん。なのに俺が責められんの。なんで? ってなるし」
 もやもやとしたその頃の懊悩を表すように、胸の前でてのひらを蠢かせ、その手がぎゅっと握られる。
「……それ以来、キスと女がダメ」
 ぱ、とその手が開かれ、三島はおどけたように首を竦めた。
「俺なんかその程度のことしかされてないけど、それでもトラウマ引きずってんだもん。おまえがトラウマになるのは、当然のことだと思うよ」
 そんな風に自身の過去を黛より軽く評価した三島は、遠回しに黛のことを情けなくなんかないと励ましてくれているのだとわかって、少しだけ胸の重石が軽くなったように黛は感じた。
 同時に、三島への感謝で心があたたかくなる。
(俺を慰めるために、思い出したくないこと話してくれたんやな……やっぱええやつやん、三島くん)
 自分にはできないけれど、誰かが三島の心も体も満たして、トラウマも解消して幸せにしてくれますようにと、黛は願った。