年度末。決算期だからというだけの理由からではなく、黛は焦っていた。
異動して二ヶ月が経ち、古巣とやり取りするとそろそろ新しい土地にも仕事にも慣れたかと訊かれるのだが、実のところ黛はまあ見事に馴染めていなかった。
仕事の内容も原因ではある。黛の仕事は、新しいシステムで既存の業務をカバーできない部分の調整役だ。東京のやり方でうまく回らない部分は、大阪のやり方を参考にしてプロセスの再構築を提案する。逆も然りで、東京流を大阪に提案したりもする。が、往々にして慣れたやり方からの変化を、人はなかなか受け入れない。
「こちらで長年やって来たやり方を、なぜ大阪に合わせなければならないのか」
「今までのやり方をカバーできるように、システム側を改修すればいいじゃないか」
そうした反対勢力の意見と、予算と納期に追われて殺気立っている情シスとの間に挟まれて、黛は四面楚歌状態だ。
やり方を変えてもらうには、変えることのメリットを示さなければならない。そしてそれは具体的な数値でなければ説得力がない。反対勢力に他部署の偉い人がいたりなんかすると、このハードルはより高くなる。
説得材料を積み上げる作業のために毎日残業続きの黛だったが、その隣には必ず、三島がいた。
「今の運用だと、マスターからデータ集めてリスト作るとこを手作業でやってるんだろ。新システムはそこの帳票出力まで自動化できるんだから、一件あたりの工数と一月の件数平均で削減工数出るだろ」
「その出力フォーマットが今の運用と違うって、次工程のリーダーが言ってはって……」
「そりゃ取り込む側が新しいフォーマットに合わせりゃ済む話だろ。毎度発生するわけじゃなし、一回設定すりゃいいんだからそこは四の五の言ってねえでやるんだよ。誰だゴネてんの、明日俺が池原と話しに行ってやる。池原がそこのクエリくらいさくっと直すだろ」
「ほんますか。池原様様すね」
「三島様様だろうが、そこは」
「ははは」
黛が仕事で行き詰まっていると、こうして必ず三島が助けてくれる。
三島が他者の業務をサポートするのは、黛相手に限ったことではない。三島は本当に周りがよく見えていて、他の部下のことも隈無くフォローしている。それが上司の仕事だから当然だと、三島は偉ぶることもない。
だが、それにしたって自分は三島に頼りすぎではないだろうかと、黛は情けなく、焦りが止まらない。個人的な事情で異動させてもらった以上、自分はここで役に立たなければならないのに。
少しでも自分にできることをと、抱える黛の終業時間はどんどん遅くなっていく。
「おい、そろそろ終わるぞ」
そんな黛の焦りを見透かして、三島は毎日、黛へ区切りの声をかける。
「腹減ったわ。何か食って帰ろうぜ」
「あー、そやね。何にする?」
「普通に和食とか食いたいな。なんか野菜足りてない感じする」
「こないだの定食屋、安くて良うなかった? 小鉢の野菜美味かった」
「確かに。焼き魚定食とかいいかも」
「ほな行こー」
仕事が終わると、黛の態度は少し砕ける。
会社で、管理職の中では年若い三島は年上部下や同年代の同僚から『三島くん』と呼ばれており、それを厭う様子もない。つられて黛も『三島くん』と呼ぶようになり、三島は『黛』と呼び捨てるようになった。
三島の方は、同い年なので気安い関係で良いと思っているようだが、黛の方は、仕事中はあくまで三島は上司、という上下関係をきちんと守ろうとしている。毎度助けてくれる三島に対して敬意を払いたいし、そんな体たらくで三島に甘えるのが当たり前の関係性にはなりたくなかった。
けれどそれも、終業後に業務外の話しかしない時間にもなれば緩んでくる。
少し古びた定食屋のカウンター席で隣に並んで、味噌汁の椀を持ち上げながら、三島が声をひそめて問うた。
「そーいやおまえ、糸川の件聞いた?」
小鉢のきんぴらをつつきながら、黛は黙って顔だけ三島に向けた。聞いているかどうかの返事は、糸川の件、の内容による。その件についてあまり積極的に知ろうとしていない黛の持っている情報は、三島が意図しているものより古いかもしれない。
「あいつら別れたって?」
けれどそこまで聞いて、黛は小さく頷いた。どうやらその状況からの更新はないらしい。
「俺は、年始に糸川くんから聞いたんやけど。やっぱり別れたまんまなん?」
「まじか、そんな前かよ、教えろよー。俺はつい昨日、帰りにコンビニで糸井に会ってよ。最近どうよ、つったら、別れて連絡も取ってないって。詳しく聞きたかったのにとっとと帰りやがったあいつ」
昨日聞いたというならそれが最新情報で、年末に別れて以来、二人はそれっきりということだ。
「……実は正月に大阪で引っ越し作業してたとき、糸川くんが手伝いに来てくれたんよな。そんとき、軽く話は聞いたんやけど」
やや憔悴した様子の糸川から、糸井の方から別れを告げられたのだという事情を聞いた黛は、そんなに好きなのに引き留めたりはしなかったのかと訊いた。すると糸川は、伏し目がちに少しの笑みを浮かべた。
――引き留めることは、できたかもしれないけど。もう、無理かなって。この関係に先はないかなって、思っちゃったんだ。
疲れたような笑いに、黛は用意していたありきたりな慰めの言葉を出せなくなる。
――説得して、いっとき別れを思い止まらせても、糸井くんは僕を信じない糸井くんのままで。僕に言うべきことも言えないで、僕の知らないところで自分を蔑ろにして。……僕はまた、何も知らずに一人で幸せに浸って。そんなのを繰り返すなら、今の僕らは一緒にいるべきじゃないんだろうなって、やけに腑に落ちてしまったというか。
そして自嘲して、吹き出すように笑った。
――心のどこかでね、少し期待してしまうところはあったんだけどね。糸井くんの方から、もし僕との関係を諦めたくないって言葉が聞けたらなって。……でも、やっぱり糸井くんは僕と別れることを選んでしまったんだ。ここに至っても糸井くんは糸井くんだなって、思ったよ。
「だーから最初に言ったんだよ俺は」
糸川の発言をかいつまんで伝えた黛の横で、三島は盛大にため息をついた。
「糸井との関係を恋愛にしたって、何もいいことねぇって」
「……そうなん」
「糸井はそういうつまんねぇとこがあんの! 糸川サンのために身を引くんだーとか、別れた俺正しいーとか、どーせそんなくだらねぇ自己満足で悦に入ってんだあいつは。好いた相手に何も伝えようとしないやつと恋愛して何が成立するっつーんだよ」
不機嫌そうに、三島は糸井を容赦なくこき下ろす。
糸井さんの人となりをよう御存知やね、と言いかけて、黛は言葉をのみ込んだ。
三島は糸井と長年セフレ関係にあったと言っていた。それはつまり、糸井との関係を恋愛にしないという選択をした結果だったのかもしれない。
何年も、離れないわりに、恋仲にはならない。そういう道しか三島と糸井の間にはなかったのではないか。
そう考えると、糸井に対する三島の情みたいなものがわずかに感じられるような気がした。
やっぱり三島くん、実はええ人なんやないの、と思っていたところで、思いついたように三島が箸で黛を指す。
「あ、てことは今糸川ってフリーなんじゃん?」
「うん? まあ、そやね」
「じゃあおまえ、糸川のこと狙ってみればいいじゃん」
そんなことを言われて一瞬面食らって、けれど言われた意味を理解して、「は?」と思いがけず低く剣呑な声が出た。
ええ人、は撤回。とんでもないノンデリだ。
「なんて?」
「だっておまえ、糸川のこと好きなんだろ? もうすぐ糸川も東京に戻ってくるし、今なら案外簡単にゲット」
「せえへんわ!」
遮るように声を張ってしまって、さして広くはない店内の注目を集めたことに気づいた黛は、はっと辺りを憚るように口元を押さえる。
「……そういう好きちゃう。俺は糸川くんらの関係と……大事にされとる奥さんが羨ましかっただけや」
自分は大事にされたことがないから。
そんな卑屈さが言葉の裏に滲んで、黛は口を噤んだ。
いややな、と自己嫌悪に沈む。どうしてだか三島の前では本心を隠すことができずに弱さばかりを晒してしまう。
もっと小器用に生きられると思っていたのに。恋愛だって、もっと軽快に始められるたちだと。
それが完全に勘違いだったことを思い知らされて以降、黛はあらゆる自信を喪失してしまっていた。
そんな黛を横目で眺めて、三島は箸休めにつまんだ漬物と同じくらいの気軽さでまた口を開く。
「じゃあ、俺と遊ぶ?」
「――……」
そう言った三島と、たっぷり五秒は無言で見つめ合ってしまった。は、の声も今度は出ない。
そのまま定食に向き直って、味噌汁を口に運ぶ。
「え、え、無視? 却下?」
覗き込んでくる三島のことは、視界に入れないようにした。
何を言っているのかまったく意味がわからない。こんな言葉を真に受けてしまったら、今度こそ全ての自尊心が潰滅してしまいそうだ。