和解を目的としている、と黛が思っていたその小さな話し合いの場は、ものの見事に決裂した。
ここまで拗れるに至る道中にはいくつものボタンの掛け違いがあって、互いに相手を思いやるがゆえにその歪みは触れられないまま、取り返しのつかない軋みとなっていた。
糸井の家族との亀裂を糸川は知らされず、実家に帰省しているとばかり思っていた糸井は、実は盆も正月も三島と過ごしていた。
一方で糸井は、一年以上も前に糸川が自宅に匿っていた黛を浮気相手と勘違いし、ずっと疑い続けながらも黙ったまま今日に至った。
何も知らないまま、ただ糸井を信じて誠実に向き合っていたつもりだった糸川は、たぶんその間にたくさんの嘘があったことを悟ったのだろう。
「……僕は、きみの何だったんだろう」
脱力してそう呟いた糸川は、思いがけず涙を見せた。
その台詞は言うたらあかんよ、とは思いつつ、言いたくなる糸川の気持ちもよくわかる。糸井は明らかに、あまりにも糸川の誠意を無下にしてきていた。
それなりに長くつき合っているのだろうし、あれだけ糸川に深く愛されておいていったい何をそんなに疑うことがあるのかと、黛にはまるで理解できない。自分ならきっと、家族へもカミングアウトに失敗して絶縁されたなら、その日のうちに糸川に電話して慰めを求めると思う。糸川ならさぞ優しく慰めてくれることだろう。
「ごめん、今は冷静に話せそうにないや。また改めて……連絡するよ」
見せてしまった涙をばつが悪そうに拭って、糸川は退店していった。
少しの沈黙の後、糸井も席を立って辞居した。糸川を追うのだろうか。ちゃんと追いかけて再度和解してほしいと願うばかりだが。
「何だよあいつら、飲んでいきゃいいのによぅ」
二人きりになったテーブルで、手付かずのまま泡が消えてしまったビールのジョッキを二つ、三島は向かいの席から引き寄せた。
「黛くんもどーぞ、もう一杯」
一つを黛の方に押しやってくるが、喜んでいただきますと受け取る気にはなれない。
「……糸川くんて、なんで三島さんのこと目の敵にしてる感じなんですか。他の人にあんな態度とるとこ、俺見たことないですよ」
自分の分のジョッキを持ち上げて、黛は問うた。黛の知る糸川は、愛想はさほど良くないものの、あからさまに不機嫌な態度をとるような人ではない。
何か余程の因縁が過去にあったのだろうかと思っていたら、ビール片手に三島が飄々と答える。
「そりゃあれだな。糸川の愛しの糸井ちゃんが、ちょっと前まで俺のセフレやってたからだな」
「ぶっ!!」
思わず漫画のように飲みかけたビールを吹き出してしまって、したたかに濡らしたテーブルを慌てておしぼりで拭う。
「セ、セフレて」
「大学時代からの長いつき合いでな、糸井。ずっと俺のことが好きだったのよ。だから長いこと我慢してセフレやってたんだろうけど、まあ糸川は糸井がかわいいもんだから、糸井をセフレ扱いしてた俺のことが許せないってことみたいね」
「なんで三島さんのセフレが糸川さんの恋人にっ?」
「写真の糸井に糸川が一目惚れして、俺が海外赴任になったタイミングで糸井を切るついでに糸川に引き合わせたの。二人のキューピッドなのよ俺」
「……っ!!」
ぐぬぬ、と黛はジョッキを掴む手に力を込めた。
三人の関係性と糸川・糸井の馴れ初めを聞いて頭痛がする。そんなことある!? と大声で叫びだしたい。
まあでもそんなこともあったらしいのでそこは飲み込むしかないとして、であれば盆正月を恋人が三島とこっそり一緒に過ごしていたと聞いたときの糸川の心情は察して余りある。当然不貞行為があったのではないかと疑うだろうし、そうでなくとも自分には隠されていたことを開示されていた三島に対して、嫉妬心が強く湧くだろう。
しかも、肝心なことを糸川に何も話していなかった糸井は、黙って糸川の浮気を疑っていたという。
「ああ……、俺が不用意に奥さんの前にツラ出したんがあかんかったんか……」
ここまでの話を総合して、今まで諸事を隠しおおせてきた糸井が、その箍を外してしまったトリガーが自分であったのかと、気づいた黛は深く落ち込んだ。
糸川は特別察しが悪いタイプではない。その彼が恋人の嘘をまったく見抜けていなかったのだから、きっと糸井は相当用心深く事実を隠してきたはずだ。あらゆる会話の辻褄が合うように。設定に破綻がないように。
けれどさっき黛と顔を会わせ、糸川の誘いで東京に異動してきたと聞いたときの糸井は、顔面蒼白で、まるで動揺を隠せていなかった。
自分と会ってさえいなければ、糸井は秘匿を完遂させ、同棲を始めて再び糸川への信頼を固くした頃合いに、実は、と自ら明かしてこの件は落着を見たのではないだろうか。過去のことになった糸井の辛さを糸川が慰め、その絆が一層強固になるという形で。
「うわぁ、やっぱ俺のせいやんか……」
頭を抱えた黛に、三島は怪訝な顔を見せ、「いや」と否定の声を上げる。
「黛くんのせいじゃない。糸井と糸川のせいだ」
そうに決まっているという力強さで言い切って、三島は黛にフードメニューを寄越した。
「まあ、とりあえず食えよ。あいつらのことで外野が気を揉んだって、なるようにしかならねえんだしさ。明日以降、糸川から話聞くくらいしかできねんじゃねえの」
三島の言葉はひどくドライに聞こえるけれど、言っていることは尤もなので、黛は抗わずメニューを受け取る。
「……天ぷら食うてもええですか」
「いーよ。俺も食うから多い方頼んで」
「ほなこっちの盛り合わせ十二品の方で……」
「おう」
ジョッキを傾けながら、三島が店員の呼び出しボタンを押す。
その夜は酔いも手伝って、黛は聞き出し上手の三島に自分の身の上話をけっこう深いところまでしてしまった。
異動に至る事情を知られている相手であり、なおかつ同類のゲイであるというのも口を軽くしたのかもしれない。愛した人から、なぜだか暴力を振るわれるようになってしまう自分の恋愛歴を、いつの間にか三島に話してしまっていた。
「……俺は普通に、相手を大事にしたいし、自分も大事にされたいし、そんで幸せになりたいだけやねんけどなぁ……」
いつか糸川にも漏らしたのと同じ愚痴を吐いて肩を落とす黛を、頬杖をついた三島は気のない相槌を打ちながら見つめていた。
翌日、糸川はちゃんと待ち合わせ場所に来てくれて、一緒に不動産屋を巡ってくれた。
前日のことには触れられずにいた黛だったが、早々に部屋を決め、午後はどうするのかとさりげなく尋ねたところ、このまま大阪へ戻るとの答えだった。
「昨日は巻き込んでごめん。今のところちょっと、和解できてない状態なんだ。僕が頭冷やさなきゃいけないと思って……」
謝られて、滅相もないと手を振って、黛は差し障りのなさそうな言葉を必死で探す。
「はよ仲直りできるとええな」
そう声をかけると、糸川は少し難しそうに、苦い笑みを浮かべた。
「うん……そうだね」
年末には、糸川は確かにそう言って、黛はなんだかんだですぐに仲直りするのだろうと思っていた。
けれど年明け、糸川から新年の挨拶とともに送られてきたのは、糸井と別れたという短い報告だった。