黛奈月の事情 -02-


 会議室に入って席に着くと、三島は机上の両手を軽く開いた。
「何はともあれ、うちのPGへようこそ。大阪の現場をよく知ってる黛くんのことは、大きな戦力として歓迎するよ」
「は……はい、期待に応えられるよう頑張ります。よろしくお願いします」
 肩の荷が重くなりつつ黛は頭を下げる。
 東京での業務内容はあらかた聞かされている。全社の基幹システムの一新に合わせた業務プロセスの統合。別会社同士が経営統合で一緒になった経緯もあって、なかなかこのプロジェクトは難航が予想されるとのもっぱらの噂だ。
 一方で、三島がプロジェクトのグループリーダーであるなら、きっとこの難局もどうにかするだろうという評価も聞こえてくる。同い年で活躍している社員の手腕には、さほど出世欲のない黛ではあるが興味を引かれる。
 その三島は、おもむろに自身の手帳を開いた。
「仕事の話の前に、直近、心身の健康状態はどうですか」
「え」
 急な問いに面食らっていると、三島は視線を落としたまま手帳のページを繰る。
「立場上、一応黛くんの異動に関わる事情はあらかた聞かされちゃってんだわ。まあでも、俺と糸川と人事の一部くらいしか知らないし、話が出回る心配はないから安心して。べつにそこを根掘り葉掘り聞くつもりもない。ただ、心身の健康上の課題があるなら、それは業務にも関係することだから、俺としても把握しときたい。負荷調整や勤務環境の配慮は俺の仕事だし」
 業務上の立場で話をする三島の前で、黛は気まずく肩を縮めた。
「……すみません。気色悪い話を聞かせてしまって」
 きっと戦力として歓迎するなんてのも口先だけで、異動してきた扱いにくい人材に手を焼いているのだろう……と思ったら、手帳から視線を上げた三島はきょとんとした顔をしていた。
「気色悪いって何が?」
「え」
「ゲイだって話なら俺もだぞ。糸川も黛くんにはカムアウト済みだって本人から聞いてるし」
「えぇ!?」
 大きく声を上げてしまって慌てて口元を押さえた黛を気にする様子もなく見やって、三島は頬杖をつく。
「驚くことでもないだろ。異性愛者以外の人間は、マイノリティーとはいえ十%程度はいるんだ。このフロアに百人いりゃ、十人がそうでもおかしくない。そのうちの三人が俺らってだけだ。むしろ他にいない方が不自然だろ」
「そ……」
 それもそうか、と思わず黛は納得してしまった。なぜだか三島の言葉には謎の説得力を感じる。初対面なのになんとも不思議だ。
「で、どうなんだよ心身の健康は」
「あっ、それはもう、大丈夫です。お陰様で落ち着いて過ごさしてもらってます。その、相手とは弁護士を挟んで示談も成立しましたし、治療費も、接触禁止の念書も受け取ってます。何より東京に移らせてもらえることになったし、糸川くんも気にかけてくれてるんで」
 その恩に報いるようしっかり働きます、という意気込みを伝えると、ふと三島は、ゆっくりと瞼を瞬いた。
「……糸川とは個人的にもずっと親しくしてるの?」
「え、親しく、ですか」
「うん、ていうか、ぶっちゃけ恋愛関係だったりする?」
「え!?」
「あ、ごめん、これセクハラか」
「いやいやいや! セクハラとかはどうでもええんですけど、ないです! それはほんまに」
 思いがけない誤解に、黛は必死に手を振って否定する。
「一時期、今回の相手からの付きまといとかがあって、糸川くんには自宅にかくまってもらったりしたんです」
「……へぇ」
「めちゃくちゃ世話にはなったし、優しいええ人やとは思ってますけど。糸川くん、めちゃめちゃ大事にしてはるパートナーの方がいるんですよ。その人との惚気話をよぉ聞かされてて、ええなぁって羨ましくなることはありますけど……話聞いてるだけで幸せな気持ちになります。横恋慕とかする気になりませんよ」
 本心からそう言うと、三島は少し、考えるようなそぶりをした。何か記憶と照合するような。
 まだ何か疑われるようなところがあるのだろうかと、黛は払拭のネタを探す。
「えっと、そう、明日の午前中は部屋探しに付き合ってもらうことにしてるんですけど、今夜はそのパートナーさんと合流することにしてるんですって。合流の時にちょこっと会わせてもらいたいなーってお願いしてたとこなんです」
 すると、三島は引っ掛かりを感じたように片眉を跳ね上げた。
「ん? 糸川が、黛くんを糸井に会わせるってこと?」
「あ、そうです。なんや、三島さんも糸川くんの奥さんご存知やったんですね」
「ご存知っつーか何つーか……」
 先の言葉を濁して、三島はぽつりと、「それは悪手じゃねーかな」と呟いた。

 悪手、の意味がわからなかった黛だったが、定時後、会社の前で二人の待ち合わせに立ち会ったところ、糸井と引き合わせられた直後、その糸井が踵を返して走り去ってしまったことで三島の予感が当たったのではないかということをほんのり感じた。
 咄嗟に追いかけた糸川に荷物を預けられ、二人分の荷物を抱えて植え込みの近くで不安に待っていたところ、ちょうど退社してきた三島が出てきた。
「あれ、黛くん。一人? 糸川は?」
「あ、三島さん。それが……」
 事の次第をかいつまんで説明すると、三島は深々とため息をついて携帯を取り出す。さくさくと操作して発信をタップすると、間もなく糸川から預かった鞄の中から着信を知らせるバイブ音が鳴り出した。
「くっそ、糸川電話置いてってんのか。しゃあねぇなぁ……」
 やれやれと舌打ちして、三島は別の相手に電話をかけ始める。何度かのコール音の後、相手が出た。
「あ、糸井? 俺。今そこに糸川いる? ……おぉ、ちょっと代われ。急ぎの用だ」
 どうやら三島がかけた相手は先ほど走り去った糸井らしく、三島は親しげと言うよりも横柄と言うのが正しそうな態度で、糸井に取り次ぎを命じた。
 ややあって、電話の向こうで糸川が応える。
「……怖ぇなぁ、もう。おまえ、黛くん会社の前に置いてくんじゃないよ。荷物も放置で、携帯も鞄の中で鳴ってるしさぁ」
 軽い口調でいくつかやり取りを重ねた後、三島は少し、声のトーンを落とした。
「……こっち戻ってこいよ。そんで、俺らの前でちゃんと話せ。いつまでもつまんねえ行き違いやってんな」
 きっぱりと告げて、三島は電話を切る。そして小さく肩を竦めて、辟易したように「待ちますか」と声をかけてきた。
 なんだか三島は訳知り顔なのだけど、何を訊いていいものかもよくわからない。黛からは声をかけあぐねていると、道の向こうから糸川と糸井が戻ってきた。
 縦に並んだ二人の表情は暗く、明らかに雰囲気が悪い。何がトリガーかまったく不明だが、喧嘩でもしたのか何なのか。事情がわからないだけにかける言葉も見つからず、黛はおろおろと預かった荷物をとりあえず返す。
「じゃー、どっか入りますか」
 この空気の中、自分はどうしたものかと迷っていたら、三島が呑気な声を上げて歩きだした。その誘いには自分も含まれているのかと、飄々とした三島と頗る機嫌の悪そうな糸川に、黛は視線を何度も往復させる。
「え、俺もすか」
 さすがにこの空気は耐えがたいので離脱したい、と願いながら上げた声に、しかし三島は当然のように頷いた。
「そーよ。黛くんわりと当事者だからね」
「え!? 何かしましたか俺」
「したのは糸川。でも、糸井も悪い」
 断定的に言った三島にまたひとつ糸川が眉間の皺を増やしたが、糸川も糸井も三島の後について行くようだったので、離脱は諦めて黛もそれに続いた。