黛奈月の事情 -01-


 運び込まれた病院で黛が意識を取り戻した時、開けたつもりの瞼はちっとも開かず、目隠しでもされているのかと思った。
 実際のところは、瞼も含め顔面が腫れ上がっていたせいで目が開かなかったのであって、しばらくすると薄く開いた瞼の間からぼんやりと光が入ってきた。
(……生きてんのか、俺……)
 ほんの少し身じろいだだけで、全身に激痛が走る。息を深く吸うだけで胸が痛むし、どうやら左手は動かないように固定されている。
 生きて、痛みを感じられるのがいっそ不思議だった。てっきりもうあの場で殺されるのだと思っていたので。
(死なへんかったんやな……)
 それがさほど良いこととも思えないほど、体中が痛くてたまらない。今この体に痛くない箇所なんてあるんだろうか。
 激昂した人間は怖い。今回、黛はそれをいやというほど思い知った。
 今までもそれをわかっていなかったわけではない。自分に手を上げる男に対して、黛はなるべく刺激しないよう、毎回やんわりとした言葉で拒否の意を伝えようとした。けれどいつだってその言葉は無視され、暴力で屈服されてきた。
 それではいけない、それで服従してしまってはいつまでもこの付きまといが続いてしまうと、今回少しだけ、黛を待ち伏せていた男に抗った。一発殴っておとなしくさせようと目論む男の手を阻んで、初めて男とまともに組み合った。
 ――逆らうのかよ。
 間近で見た男の目の奥に怒りが点った、それからが地獄だった。
 黛は喧嘩慣れなどしていない。反撃らしいことは何一つできないうちに数発の殴打を食らい、それをきっかけにいつもの離人症状が出て、思うように体を動かせなくなった。そして、いつもは動かなくなった黛を犯すだけの男が、今回は暴力を止めなかった。
 殴られ、蹴られ、踏みつけられ、完全に意識をなくしてしまってから、おそらく黛は強姦されたのだと思う。性行為について、今回は記憶にない。けれど、それがなかったと否定するには、下半身に見知った痛みが残りすぎている。
(もう嫌や……)
 うまく開かない目に涙が溢れる。こぼれると傷にしみて痛いから泣きたくなんかないのに、止めることができなかった。

 その後、医者から怪我の状態を説明され、やって来た警察からは元恋人を傷害の容疑で逮捕したことを聞かされた。相手は留置場に入っていてここへは来ない、それがわかっていても黛は過敏に他人の気配に怯えた。
 ノックの音に、反射的に体が震える。ドアの前で看護師の女性が優しい声で入室を予告してくれて、やっとその強張りが解ける。
 そんな気の休まらない入院生活を送って一週間ほど経った頃、糸川が見舞いに来た。
 何が起きたか、糸川ならきっと察しているだろうし、心配も迷惑もかけている。きちんと自分の口から経緯を説明しなければと、震えを押し隠して開こうとした口を、糸川が止めた。
「いらないよ、説明なんか」
 そう言って重ねられたてのひらが温かくて、黛は自分の手がひどく冷えきっていたことを知った。冷たいのに、握り込んだその内側は汗ばんでいて、自分の身に起きたことを改めて語ることに強いストレスがかかっていることを自覚する。
「退院してからの話をしよう」
 糸川は深い息を吐き出した黛にファイルを手渡した。上司から託ってきたそれは、社内の人材交流の一環で黛が大阪から東京へ転勤することについての関連書類で、黛が望めば大阪から離れられるよう手配してくれたものだった。
「黛くん、僕と東京に行こう」
 優しい糸川の声。この人は自分を傷つけない。
 大阪からも怖い記憶からも離れて、新しい環境で生きられる。その僥倖に心から感謝し、ほっとしたと同時にまた涙腺が緩んだ。
「……うん……行く。ありがとう」
 涙はファイルの陰に隠したけれど、声の揺らぎは隠せなかった。


 十二月半ば、年末も押し迫る中途半端な時期に黛の異動は決まった。
 本当は糸川と同じ年度初めか、早くとも年明けという話だったのだが、社内で何か良くない噂が広がってしまったのだという。黛は大阪事業所に復帰することなく、直接東京事業所へ移ることになった。
 とはいえ急な異動だったので、まだ部屋も見つかっていない。今回は配属先への挨拶と部屋探しの目的で東京出張に来ている。
 隣で東京事業所の中を案内してくれているのは糸川だ。課長の指示で黛の出張に同行してくれることになったのだが、それを聞いたときは保護者をつけられたようでなんだか気恥ずかしかったし、手間をかけさせるのが申し訳なかった。
 でもまあ、糸川は今夜も奥さんとデートらしいし、明日の黛の部屋探しが終わったらまた奥さんと合流するのだそうだから、糸川も吝かではない様子だ。
 ほんまに仲ええな、と黛は少し羨ましくなる。
 糸川の恋人である糸井のことを彼は本当に愛していて、普段はあまり愛想が良い方でもない分、糸井の話になった時の変わりようには少々引くくらいのギャップがある。初対面では同じ匂いを感じてちょっとちょっかいをかけてやろうかと思ったりもしたが、どんな誘惑にも微動だにしそうにない。
 糸川のような人に愛されている奥さんはさぞ幸せだろうなと思ったりはするが、そこに自分が置き換わることは想像もできないほどに糸川の惚気を聞き飽きている黛だった。
「あれ、糸川ぁ?」
 一通り事業所内を回ったところで、呼び掛ける声に隣の糸川が振り返る。まれに見る不機嫌な形相だ。
「ああ。黛くん、こちらが今度きみの上司になる予定の三島。僕の同期」
 これから東京でお世話になる上司だと紹介されて、黛は背を伸ばした。
「あっ、はじめまして、黛です。お世話になります!」
 最敬礼の深さに頭を下げた黛の緊張とは裏腹に、三島は至極ゆるい空気で頷く。
「はーいどーも、三島でーす」
 黛を向いての挨拶はそれだけで、三島は早々に視線を糸川に移してしまった。
「事業所案内中? 終わった?」
「だいたいは」
「そか。じゃあー、黛くん。この後の面談、ちょっと早いけど今から行ける?」
 腕時計を見ながら三島に訊かれ、黛はまた背を正す。
「あ、はい。大丈夫です」
「じゃー行こっか。糸川はどうする? 一緒に来る?」
 軽い口調で誘う三島に、また糸川はものすごく嫌そうに眉を寄せた。
「いや、だめだろ、面談に部外者が入っちゃ。俺はどっか席借りて仕事してるわ」
 ん? と黛は少しの違和感を覚えて糸川の顔を見た。いつもの糸川は、一人称が僕のはずだ。
「あそう、んじゃちょっとお借りしてくねー」
 鷹揚に笑って、三島は廊下の奥にある小さな会議室へ向かって歩き出した。
「はぁー、いつ会っても糸川はかわいいね。きみもそう思うだろ?」
 廊下を歩きながら同意を求められて、黛は戸惑って首を傾げた。
「かわいい、ですか? 糸川くんが?」
 どちらかと言えば黛から見た糸川は頼りになる大人の男性といった印象で、かわいいという形容は全くぴんと来ない。
「えー、かわいいじゃん糸川。あいつぐらいよ、俺にあんな露骨な悪態つくの。あいつも俺ぐらいじゃないの、あんだけ気ぃ許してるの。いやよいやよも、を地で行ってるって思ったらかわいくてしょーがないっていう。わかんない?」
 全然わかんない。と答えるわけにもいかないので、黛は曖昧に笑みを作った。
 どうやら東京の上司はだいぶ変わった人のようだ。まだ面談場所の会議室にも着かないうちに、うまくやれるだろうかと一抹の不安が黛の胸をよぎった。