「……俺は……」
慎重に息を吐く。思っていたより声は震えなかった。
「糸川さんと、別れます」
表情を変えることなくそれを聞く糸川にも、動揺はない。
糸井は今日ここに、糸川へ別れを告げるために来ていた。本当にそれでいいのか、悩みに悩み抜いての結論なので、糸井にはもうそれを曲げる選択肢はない。
それでも、相応の躊躇が糸井の喉を狭めようとする。それは仕方がないことだ。糸井の糸川に対する愛情は、今も少しも薄れてはいない。
「……俺は、やっぱり俺が信用できない。人に好かれる価値があると思えない。だから糸川さんの気持ちも信用しきれない。好かれそうな自分しか見せられない」
あんなに献身的に支えてくれた母も、慕ってくれた弟も、結局糸井を見放した。そんな自分の無価値さを隠そうと、都合の悪い自分はなかったことにしようとした。
家族に絶縁されて同情を引きそうな自分も、転勤中の浮気を咎めてしまいそうな狭量な自分も。いないことにして、糸川と離れている残りの時間をやり過ごそうとした。
「でも、それだと糸川さんは辛いんですよね」
そうして糸井が自らを殺したことを、糸川は怒り悲しんだ。なぜ自分を頼らなかったのかと。そんなに信用がないのかと。そして、それなら自分は糸井の何なのかと。
糸井の在り方が、結果的に糸川を傷つけることになるのだと、糸井は理解した。
「こういう自分のままじゃ、人とはつき合っていけないってわかった。でもたぶんすぐには変われない。そんな俺とつき合ってても、糸川さんは幸せになれない」
糸川の不幸せを、糸井は望んではいない。
「……俺も、糸川さんと一緒にいられて幸せだったけど、嫌われるのを怖がりながら過ごすのは苦しかった。こんな関係は、お互いのためにならないと思う」
あのときこうすればよかったと、今になって後悔することはたくさんある。でも、この先同じ轍を踏まない自信がまるでない。
何度でも後悔して、その度に何度でも自分は糸川を傷つけるのではないか。
「糸川さんのことが好きだから、糸川さんには幸せになってほしい。でも今の俺にはできない」
できないと言い切ってしまうことは、糸川に対してとても不誠実なことだとはわかっていた。できるようにする努力を放棄することだから。
でも、いつかできるようになるとも、糸井には思えなかった。糸井は自分を信じられない。
「糸川さんの相手は、俺じゃないんだと思う」
せめて誰かが、糸川を幸せにしてあげてほしいと、離すことしかできない手を糸井は握り合わせた。
糸井が用意してきた言葉を終えると、二人の間にしんと沈黙が落ちる。
テーブルに視線を落とし、黙って聞いていた糸川は、ずいぶん間をおいて「うん」と小さく頷いて首を振った。
「……いや、情けないな。きみの気持ちを変えられるような言葉が、何も思いつかないよ。僕が悪いって言ってくれたら、死ぬ気で直すのにな」
困った顔で笑って、糸川は深く腰かけていた椅子から立ち上がった。糸井の横まで歩み寄り、両手を軽く広げて差し出してくる。
「最後に」
そう言って腰を屈めた糸川に、糸井も腕を回した。
緩く背中を抱いた、優しい抱擁。ほんの短いハグの間に、糸川は糸井の耳元にくちびるを寄せた。
「………」
囁かれた、小さな小さなその声に、はっと糸井は顔を上げる。
何か言葉を返さなければと思ったけれど、糸川はもう腕を解いて体を起こしていた。
「じゃあ」
またね、とは続かない。再会を約束することはない、短い挨拶を残して、糸川は伝票だけ取り上げて席を離れていった。
周りから見たら、束の間軽く抱き合ってすぐに離れた二人はどう見えただろう。久しぶりに会って、また今度会おうと別れを惜しんだ親しい友人同士といったところだろうか。
きっと誰も、別れ話を終えた元恋人同士だとは思わないだろう。糸井ですらそうは思えなかった。
だって、別れ際、糸川が囁いたのは愛の言葉だったから。
――愛してる。
その言葉を、糸井は生まれて初めて人から受け取った。
好きだとは、何度も言ってくれたけれど。糸川が糸井にそれを言ったのは、最初で最後。
(……知ってるよ)
わかっている。糸川に愛されていたこと。糸川がたくさんの愛をくれていたこと。
悪いのは、それをきちんと受け取れなかった、上手に愛されることができなかった、自分の方。
(ああ、うまくやれなかったなぁ。やりたかったなぁ)
昔、こんな風に自分に失望したことがあった。記憶をなくしたあと、小学校に戻ろうとして、しかしもう戻れないと思ったとき。
挫折して、母に『死にたい』と泣き言を漏らして、その後はぬくぬくと護られて時を過ごしたのだった。
進歩がない。人を傷つけることしか能がない。
まだ過去形にならない愛を告げた糸川も、きっといつか、自分と離れてよかったと思うのだろう。
店を出て、帰宅している途中で、さよならを言いそびれてしまったことにふと気付いた。
部屋に戻って一人になっても、なぜだか涙は出なかった。
泣きたいときにさえうまく泣くこともできないのかと、つくづく自分の不出来が嫌になった。
<END>