アネモネ -side F2- 01


 糸川が涙を見せた。
 頬を伝わず、瞼から直接こぼれ落ちたその一滴は、糸井に大きな衝撃を与えていた。
 これまで何度も、泣き虫な糸井は糸川の前でもめそめそと泣き顔を見せてきた。けれど糸川は一度も糸井に涙を見せたことはない。
 ――僕はきみの何だったんだろう。
 脱力した、諦めたようなあの呟きが、糸井の耳に残って離れない。
 糸井はあの涙を見て、自分の行いが余程のことだったのだと思い知った。
 糸井にとっては、糸川との関係が続くことが最も重要で、そのためなら他は全て些末事だと思ってきた。糸川の気持ちが他へ動いていたとしても。それで自分が悲しい思いをしたとしても。そんなことは全部どうでもよくて、とにかくつき合いが続きさえすれば良いのだと。
 それは糸井が糸川を好きだからだ。何をおいても彼の恋人であり続けたいという想いからのことだ。
 けれどその結果、糸井は自分自身のことも、糸川のことも軽んじてしまっていた。
 浮気疑惑を追及できなかったのは、糸川の気持ちを信じきれていなかったから。自分に彼を引き留めておくだけの魅力がないせいだと卑下しながら、結果的には糸川が軽率に心移りする人だと侮辱していた。
 そのことに、糸井は、糸川の涙を見るまで気付きもしないでいた。
 反省と後悔。糸川に対する申し訳なさ。あの日から、それらがずっと胸を占めている。
 毎日一度は必ず交わしていた連絡が、もう二週間、ふっつりと途切れていた。糸川へ何の言葉も送れないまま、年の瀬が迫っている。
 明日はもう大晦日。糸井の中の決意を伝えるなら、年は跨がない方がいいだろう。
『今年もこちらへ帰省していますか。明日、会えませんか』
 急すぎて断られるだろうかと思いながら送ったメッセージには間もなく既読がついて、『わかった』と短い返事があった。糸川も会うタイミングを計っていたのだろうかと、なんとなく思った。
 大晦日、午後二時に、二人が初めて出会ったあのカフェで。待ち合わせのメッセージを送って、糸井は深く息をついた。


 待ち合わせ時刻の十分以上前に糸井はカフェに着いて、ホットコーヒーを注文した。それを飲んで待っていると、こちらも五分前の時間になって、糸川がやって来た。コートを脱ぎながら、水を持ってきた店員に「同じで」と告げて糸川が向かいに座る。
「ごめんね、待った?」
「いえ、まだ時間前です」
 和やかに言葉を交わして、糸川が周囲を見回す。
「……もしかして初めて会ったときもこの席だったっけ?」
「そうですね。場所は同じかな。椅子が変わってますね」
 あのときは確か、一人掛けのソファーが四つ、丸テーブルを囲んでいた。今は丸いクッションが置かれた木製の椅子が四脚になっている。
「三島がこう、横にいたんだよね。早くいなくならないかなと思ってたんだ、あのとき」
 糸川が思い出すのも嫌そうに言うのを見て、糸井は笑ってしまう。
「糸川さん、三島さんのことかなり嫌いですよね。何かあったんですか?」
 問われ、糸川は少し考える素振りを見せた。
「……何だろうね、とにかく人として合わないんだよね、相性の問題かな。それとあとは、まあ、単純な嫉妬と嫌悪だね」
 ふふ、と糸川は口許を緩める。
「糸井くんに好かれてたこと。知ってて糸井くんを雑に扱ってたこと。何もかも許せなかったよ」
 そんなこともあったなと、思い返す糸井にとってはもうずいぶんと遠い。
 七年の長い間、糸井は三島の近くで、幸せとは縁遠い場所にいた。けれどその後、糸川と過ごした三年弱がとても幸せで、糸井はあの七年を遠い過去として消化できている。
 三島とも既に新しい関係を築いている。今の糸井にとって三島は、大学時代からの付き合いの、たまに会えば奢ってくれる気の良い先輩だ。
 それでも三島を話題にするときの糸川の眉間に刻まれる皺は深く、くすくすと笑っているうちに糸川の分のコーヒーが届いた。
 自宅でコーヒーを飲むときの糸川は牛乳を少し入れるけれど、外で飲むときはブラックのまま飲む。コーヒーフレッシュのポーションをちまちま開けて注ぐ作業が億劫なのだと言っていた。
「……この間はごめんね、ろくにきみの話も聞かないで帰って」
 コーヒーを一口飲んで、糸川はカップを置いた。
「きみからの話の前に、僕から少し、質問させてもらってもいい?」
 伺われて、糸井はこくこくと頷いた。今日は、糸川から何を問われても全て正直に話そうと思ってここに来ている。
「じゃあ……えぇと。ご家族から絶縁されたって言ってたじゃない。その経緯を教えてもらえる?」
 問われると思っていたことが予想通りに来て、糸井は膝の上で拳を握った。
「あの年末に、糸川さんと一緒に暮らすって話をして。そうなると住所も変わるし、一人じゃないってことも知らせないといけないと思って。男性と一緒に住むって話をしたら……たぶんどっか疑うところがあったらしい母親から、どういう間柄なんだって訊かれて。正直に恋人だって答えたら、……なんて言うか、理解を得られなくて。弟からも、殴り飛ばされちゃって」
「えっ」
「父だけは一応わかってくれたんですけど……それ以来、一度も帰れてないし、連絡も取ってないです」
「……僕、そのときもあけおめ電話したよね」
「あのときは、実家を出て、一人でネットカフェにいました」
 想像もしていなかった当時の状況を初めて聞かされ、驚きと、それを越える落胆に糸川の肩が深く落ちる。
「そう……。なんでそれを、僕には言えなかったの?」
「心配、かけたくなかったし。俺の不手際で、同居前に水を差したくなかったし。その後すぐ、糸川さんの転勤の話もあったし。……あのタイミングでそんな話したら、糸川さん、転勤の話蹴っちゃってたでしょう」
「……そうだね」
「あのとき伝えた俺の気持ちは本当です。俺のこととかじゃなく、糸川さんには糸川さん自身のために、今は仕事を頑張ってほしいって。その妨げになりたくなかっただけです」
「そう……」
 これは嘘じゃないと、強く言った糸井に、糸川は伏し目がちに息をつく。やるせなさが吐き出されたような重み。
「……でも僕の本音はね。きみがそんな状況にあったなら、せめてそのときは、傍にいさせてほしかったよ。転勤や仕事のチャンスは、また他にも巡ってきたかもしれない。一度掴み損ねたくらいで、二度とその機会を与えられない程度の仕事をしてきたつもりもない。でもきみの、……恋人のつらい時期に寄り添うことは、僕にしかできなかったはずで、それを任せてほしかった。頼ってほしかった」
 言い募るほどに語調がきつくなっていくのを自覚したのか、糸川が一度言葉を切って、またカップを口に運ぶ。
「ごめん……今更こんな恨み言言われても困るよね」
 弱い謝罪に、糸井は首を振る。
 そうか、と糸川の思いを改めて知った。糸井は糸川のためを思って行動してきたつもりだったけれど、それが結果的に、糸川の涙を伴う無力感を与えてしまったのだということ。
 立場が逆だったらどうか。糸井は糸川のために、何をおいても傍にいようとしたはずだ。傷が癒えるまで、何もできなくとも、片時も離れたくないと思ったはずだ。
 それもさせてもらえないとしたら。
 ――僕はきみの何だったんだろう。
 彼の恋人としての自分の意味を、疑いたくもなる。
「……それで、盆正月を三島と過ごしたっていうのは?」
「盆は……俺が体調を崩してしまって。コンビニに買い出しに行ったら、たまたま近所に住んでた三島さんもいて。なんか熱でよくわかんないうちに、三島さんがうちで看病してくれる流れになって」
「……僕には言えなかったんだね? 実家に帰省してることになってたから」
「そう、です」
「正月は?」
「それも、コンビニに買い物に行ったら三島さんと会って。これもたまたまです。近所に住んでるって言っても、その二回しか会ってないし連絡取り合ったりもしてないです。本当に、三島さんとはもう何もないです」
「それは信じてるよ」
 きっぱりと言った糸川はけれど、くちびるの端をぎこちなく歪ませる。
「……でも、家族から絶縁されたことを話すのも、看病をするのも、僕の浮気疑惑現場見て相談するのも、全部三島なんだね。……僕じゃないんだね」
 その不義理を責められると、糸井は何も言い返せない。
 今ならわかる。全部糸川を頼ればよかったこと。そうすれば誤解も即座に解消できたこと。
 それでも、必死だった当時の糸井にはそれができなかった。結果的に糸川の望まない行動を繰り返してしまった。
 それが糸川を信用できていなかったせいだということなら、糸井はもう、謝るしかできない。
「……すみませんでした」
 深く頭を下げると、「いや」と声を上げながら、慌てたように糸川が身を乗り出した。
「ごめん、謝らせたかったわけじゃないんだ。疑問を解消したかっただけで。……きみの話を、聞く前に」
 少し含みのある間を持った糸川の声に顔を上げると、糸川はひどく優しい顔で、糸井を見つめていた。
「……気持ちは決まってるんだよね」
 見透かされているのだと知る。
「心変わりしてくれないかなって思うけど、たぶん無理なんだよね」
 穏やかな声が静かに諦めるのを、糸井は聞いた。