「あれ、糸川ぁ?」
 社内の廊下で間延びした声に呼び止められて、糸川は振り返った。げ、と思いはするが声にはしない。ミーティングルームから出てきたのは三島だった。
「ああ。黛くん、こちらが今度きみの上司になる予定の三島。僕の同期」
 一緒にいた黛に紹介すると、黛は肩を縮めて勢いよく頭を下げた。
「あっ、はじめまして、黛です。お世話になります!」
「はーいどーも、三島でーす」
 相変わらず覇気のない声でおざなりに挨拶する三島に、糸川は内心で律儀に腹を立てる。訳アリで中途半端な時期に異動してくる部下と初めて会うのだから、もう少しホスピタリティを持って接しろよと言いたくなる。
 傷害事件から約二ヶ月後、新年度を待たず、十二月の半ばという微妙なタイミングで、黛は大阪から東京へ異動することが決まった。
 加害者とは弁護士を通じて今後の接近禁止を条件に示談が成立し、怪我も軽快して退院できたのだが、休職期間は延長された。その結果大阪の社内で妙な噂が広がることとなり、人事は黛の異動時期を早める対応をとった。先日辞令が出て、今日は配属先への挨拶と部屋探しを兼ねて東京出張に来ている。
 糸川は課長の配慮で付き添いにつけられた。黛に東京を案内するついでに奥さんに会いに帰ってこいというありがたい申し出だったので、謹んで拝受した。今日が金曜、明日の午前中に黛と一緒に社宅を三軒内覧して、午後から日曜はフリーということになっている。今夜は糸井とデートの予定だ。
「事業所案内中? 終わった?」
 三島に尋ねられ、糸川は「だいたいは」と受けて頷く。三島は腕時計を覗きながら黛を振り返った。
「黛くん。この後の面談、ちょっと早いけど今から行ける?」
「あ、はい。大丈夫です」
「じゃー行こっか。糸川はどうする? 一緒に来る?」
「いや、だめだろ、面談に部外者が入っちゃ。俺はどっか席借りて仕事してるわ」
「あそう、んじゃちょっとお借りしてくねー」
 こっち、と促されて黛は三島に連れられていった。途中、少し惑った様子でこちらを振り返ったので、行ってらっしゃい、と軽く手を振ってやる。いくら相手が三島でも、社内で取って食われたりはすまい。
 糸川たちの会社は大手の産業機器メーカーで、大阪支社と東京本社は元々別会社だったところ、経営統合の結果ひとつの会社になった経緯がある。そのため、人事・経理・購買・製造、あらゆるシステムが別々の体制で動いていた。もちろん社風もかなり違う。その両者の融合を図るため、これまでも人材の交流は多く行われてきた。
 この度、各社のシステム更新時期を控え、旧システムからの刷新も目指し、全ての分野でシステムの入れ換えと共通化を行うことになった。
 一企業の基幹システムを入れ換えるというのは容易なことではなく、数年単位の準備期間が必要となるため、部署間を跨いだプロジェクトグループが発足し、そのリーダーに抜擢されたのが三島である。
 今回の異動で黛はそのプロジェクトグループに参画することになり、上司となる三島に異動の挨拶をしに来たのだった。
 その挨拶がてらの面談を終えて、小一時間ほどで黛が糸川のいる席に戻ってきた。
「お疲れ。どうだった?」
 隣の席に促すと、黛が緊張を解いた顔で椅子にへたり込む。
「あー、まあ忙しくなりそうやなぁ、って感じ。あかん、めっちゃ疲れた。やっぱ俺、環境の変化に弱いんやわ」
「僕も大阪に行くってなったときは緊張したよ。幸い大阪の人たちはみんないい人だったから、すぐに馴染めてありがたかったけどね。課長もいい人だったし」
 職場の人間関係は、ともすれば業務内容よりも遥かに個人のモチベーションに影響する。そういう意味で、大阪での糸川の環境はとても恵まれていた。
 翻って黛にとっての東京はどうかと考えると、いかんせん上司があの三島である。
「三島とはうまくやっていけそう?」
 どうしてもそこは懸念されるところで、老婆心ながら糸川は黛にその印象を問うた。
「うーん、まだわからへんけど……何ていうか三島さんて、変わった人やな」
 面談での印象を思い出しながら、黛は斜め上を見上げる。
「なんか、いろいろ見えてはるんやなって思った。何がとかはよおわからんけど。不思議な人やったな」
 何やら要領を得ない黛の返答に、へぇ、と低く呟いて糸川は目を据わらせた。いったいどんな面談をしたのかと、三島に対する不信感は募る一方の糸川だった。
 定時を過ぎてしばらくして、黛と明日の予定について話をしていたところに糸川の携帯が鳴った。
「……あ、糸井くんそろそろ着くって」
 メッセージは糸井からで、糸川の会社の最寄駅を出たから間もなく会社に到着するという連絡だった。
 今夜は黛と同じビジネスホテルを予約しているので、一度チェックインして荷物を置いて、糸井と夕食デートに出掛ける予定だ。
 明日は朝から物件探しなので、今夜はホテルに戻り、午前中の用事が済んだらまた午後に糸井と合流することになっている。
「生の奥さん、見んの楽しみやなー」
 声を潜めて笑う黛に、糸川は肩を竦めて見せる。
「今日は軽く紹介するだけね。繊細な子だから、あんまりじろじろ見ないであげて」
「はぁい。旦那セキュリティつよ~」
 からかう声はスルーして、糸川はキャリーを引いて席を立った。
 黛が東京に来ることになって、自分も春には東京に戻る。もしかしたら数少ない理解者として糸井の相談相手になってくれたりもするかもしれないと、糸川は黛を糸井に紹介することにしていた。
 何か糸川に直接話せないこと、例えば糸川の愚痴だったりでもいい、溜めないで話せる相手がいた方が良いかと思ったのだ。それは内に溜め込みがちな糸井を気遣ってのことでもあった。
 二人でエレベーターに乗って一階へ降り、正面玄関から外に出る。街路樹の側で待っていたら、ほどなくして駅方面から続く歩道に糸井が姿を表した。
「あ、糸井くん、こっち!」
 手を振ると、気付いた糸井が破顔した。
「お疲れ様です」
 そう言いながら小走りで駆け寄ってきた糸井が、戸惑った様子でふと表情を変える。
「こんばんはー」
 ひょこりと、糸川の後ろから黛が顔を出して愛想よく頭を下げた。
「え……?」
「あ、糸井くん紹介するね。こちら、僕の大阪支社での同僚で、黛くん」
 糸井の冴えない表情の訳を、糸川は人見知りのせいだと思い込んだ。
「今度、東京本社に移ることになって、こっちで一緒に仕事することになったんだ」
 けれど、黛のことをそう紹介したとたん、糸井は明らかに顔色を失った。
「……糸井くん?」
「あ……すいません、俺……」
 真っ青な顔で、糸井は額を片手で覆う。
「用事を思い出したんで、失礼します」
「え!?」
 引き留める間もなく、深く一礼した糸井は踵を返し、駅に向かって駆け出してしまう。その姿は帰宅時間の人並みに紛れて、あっという間に見えなくなってしまった。
 突然のことに呆気にとられた糸川は、黛と顔を見合わせる。
「用事、って、何……」
「え、ちょ、追いかけた方がええんちゃうの」
「あ、そうだよね? そう……ちょ、ちょっと待ってて。すぐ戻るから」
 携えていた荷物を黛に託して、とにもかくにも糸川は糸井を追って走り出した。
 なぜ糸井が、逃げるように走り去ってしまったのか、糸川には皆目見当もつかない。今夜の予定は以前から一緒に決めていたことで、他に急に思い出すような用事を入れていたとも思えない。
 ふと脳裏に、糸井の几帳面な文字が思い浮かんだ。
『急用ができたので帰ります』
 随分前だ。まだちゃんとつき合っていなかった頃のこと。糸川の寝言を誤解した糸井が、糸川から離れるために残した書き置き。
 あれを最後に、糸井は糸川との関わりを断つ気でいた。糸川がストーカー張りの執念で再会にこぎ着けなければ、二人はあのまま終わっていたかもしれない。
 もしもあんな誤解がまた糸井の中に生まれているのだとしたら、一刻も早く解かなければならない。以前よりましになったと思ってはいたものの、糸井の自己完結は本当に厄介で、一人で出した結論に一人で納得して閉じてしまう。
 そのときの焦燥が蘇って、糸川は足を速めた。