大阪転勤から一年半。業務も順調に進んで、糸川の赴任期間も残すところ半年となった。
 あと半年で東京に戻れる。戻ったら糸井と同棲を始めて、毎日一緒にいられる生活になる。そのときが楽しみで待ち遠しくて、それを心の支えに大坂での日々を過ごしてきた。
 今の、半月に一度互いに会いに行く生活も悪くはない。移動時間はもどかしいけれど、会えたときの喜びはひとしおだ。
 それでも、叶うことならずっと一緒にいたい。
 糸井との関係は順風満帆。……と言いたいところだが、どちらかと言うと『無風』というのが近いと思う。なんというか、風も吹かなければ波も立たない、進みもしなければ戻りもしない、そんな印象。
 定期的にメッセージのやり取りも通話もするし、会えば糸井はいつでも可愛い。口喧嘩ひとつしない今の関係は、うまく行っていると言っていいのだと思っている。
 唯一気になっていることと言えば、いつも糸井が少し、疲れた様子だということ。会話のないときに、ぼんやりと何かを考えていることが明らかに増えた。
 呼び掛ければ明るく応えるのだが、話に聞く限りでは仕事がかなり忙しいようだ。大阪に来るのは移動だけでも疲れるので、頻度を下げてはどうかと提案したりもしたのだが、不安げに表情を固くしたのを見てそれ以上は言うのをやめた。糸井も会いたいと思ってくれているのなら、その気持ちに水を差すこともない。
 ならば、せめて会えたときには糸井の体になるべく負担をかけないようにしようとも思うのだが、房事については糸井は以前より積極的で、なぜだかかなり奉仕的になった。休ませてあげたいと思いながらも、能動的に煽られてはそれを断れるほど糸川も人間ができてはいない。
 ……とまあそんなこんなで不足のない日々を送っていた糸川の元に、このところ数日姿を見なかった同僚の黛が、一ヶ月休職するという報せが舞い込んできた。
「この期初の忙しいときに」
「え、なに、病んだ?」
「そんな雰囲気でもなかったやろ。体調不良言うてたで」
「風邪こじらせたとか? 一人暮らしやったやんな。実家奈良やっけ」
「風邪で一ヶ月はやばない? 長いやろ。何か大きい病気してんちゃうやろな」
 噂話は盛り上がるものの、確かな情報はなかなか得られず、終業後に直接連絡を入れて自宅を訪ねてみようと思っていた。そこへ、今度は課長から声がかかって別室へ呼ばれた。
 何の話かと身構えていると、課長は険しい表情で口許を覆う。
「糸川くん、黛から直接話聞いてるか」
「休職の件ですか。いえ、まだ何も。今日にでも連絡してみようとは思っていますが」
「……そうか。いや、一時期糸川くん、毎日黛と一緒に帰っとったことがあったやろ。わざわざ二人時間合わせて」
 なんとなく口はばったく過去の行動を指摘されて、糸川の頭を嫌な予感がよぎる。
 去年の夏ごろ、黛が元恋人から乱暴されていたところを、偶然通りかかった糸川が助けたことがある。事情を聞き、また同じようなことがあってはいけないからと、三ヶ月ほど一緒に帰りがてら送っていったり、週末は自宅に泊めたりしていた。
 警察にも相談し、巡回してくれるようになったりして、そろそろ大丈夫かと行動を共にすることはなくなり、それから一年近く経つ。その間、黛は暴力を振るわれた様子も、特に不安そうにしている様子もなかった。
「そんときに……もしかしてなんか、ややこしい相談されてたんちゃうかと思ってな」
 言いにくそうに課長が『ややこしい相談』などと口にしたことから、糸川の嫌な予感が一気に濃度を増す。
「黛くん、……怪我ですか」
 眉を顰め、慎重に問うた糸川の態度が、『事情を知っている』ことを課長に伝えた。
「……暴漢に襲われた、ちゅうことやそうや。つきまとってた男がおんのを警察に相談しとったらしくて、早々に捕まったて聞いた。人事の上と、直属の上司である俺と、うちの部長がとりあえず把握しとる。他には流してへん」
 二人きりの会議室で、それでも声を潜めて、課長は苦々しく言う。
 糸川は両の拳を握り、深く頭を下げた。
「すみません。僕がもっとちゃんと傍についているべきでした。つきまといがあったことも知ってたのに、安易な判断をしてしまって」
 謝罪した糸川の背を、慌てたように課長がさする。
「いやいや、ちゃうやん。糸川くんが謝らんでええがな。あんとき糸川くんがおってくれて、黛も十分助かったんと違うか。この話したんは責めたいわけやなくてな、ちょっと、事情をわかってる糸川くんにひとつ頼まれてほしいねん」
「え……?」
 頼みごととは何かと顔を上げた糸川に、課長は慈悲深い笑みを浮かべた。
 終業後、糸川は黛が入院しているという病院へ向かった。
 会社から連絡が行っていたようで、受付では本人確認をされた上で、筆談で病室の番号を案内される。部屋は一般病棟の中でも端の方の、静かな廊下の先にある個室で、部屋のドアには記名がなく、先程案内された番号と間違いないことを確認して糸川はそっとノックした。
「……糸川です」
 一度目のノックでは反応がなく、二度目のノックの後に名乗ると、小さく「どうぞ」の声が返った。ゆっくりと、引き戸を開く。
 部屋に入り、ベッドに横たわった黛の姿を見て、顔には出さないようにしたけれど、糸川はかなり驚いた。想像していたよりもずっと、怪我の程度が重い。
 顔はほとんどがガーゼと包帯で覆われていて、開けてある目の部分もまぶたが腫れていて目が見えない。ゆったりとした病院衣のあわせからは胸元の包帯が覗き、左腕にはギプスがはめられていた。
「……いややな、こんなみっともないカッコ。あんま見やんといて」
 苦笑いの弱い声がかすれる。やや背中を起こしたリクライニングベッドから、起き上がることはできそうになかった。
「みっともないなんて。……怪我の具合はどう」
 糸川はベッドに寄り、置かれていた白い丸椅子に腰を下ろす。
「肋と左腕、いってもうてん。それ以外は主に打撲や。まあ、そのうち治る。大丈夫や」
 己に言い聞かせるような声が不自然に張って、黛は次の言葉を探すようにしばし黙り込む。病室に静寂が沈殿し、不意に、小さく聞こえていたその呼吸が速く浅くなった。
「あぁあの……説明。説明、せなな。えぇと」
 右手の指が、布団のカバーに強く爪を立てて握り込む。その手の甲に、糸川は自分の手を重ねた。
「いらないよ、説明なんか」
「え……?」
 当惑した黛が、その手を見つめる。
「けど、俺、迷惑かけて。職場のみんなにも、何も言わんと休んでて」
「それが何。怪我をして、治すために休むんだよ。当然だろ。時間が必要なのは見ればわかる。説明なんかしなくていい。何も思い出さなくていい」
 きっと、警察や、いろんな人から事情を尋ねられてきたのだろう。説明するには起きたことを思い出さなければならなくて、それにはきっととてつもない恐怖が伴う。何度も傷つき直すような、そんな辛苦は繰り返させたくなかった。
 惑ったまま、けれど深く呼吸できるようにはなった黛の手を放し、糸川は自分の鞄から書類を取り出した。
「退院してからの話をしよう」
 クリアファイルに入ったそれを、糸川は黛に手渡す。中身は転勤に伴う手続きと各種福利厚生に関する説明だ。
「僕も今、東京と大阪の事業所間での人材交流で大阪に赴任してる。今後、両事業所の基幹システム統合を見据えて、若手の人材交流はさらに推進していく方向だそうだ。春には僕は東京に戻る予定だけど、また東京から何人か大阪に赴任することになる。大阪からも同じように東京へ人を出すことになる」
 その書類を糸川に託けた課長は、ひどい暴行を受けた黛の心を、深く気にかけていた。
 慣れた土地と仕事を離れるのは躊躇するかもしれない。でも、怖い思いをした場所から物理的に距離を置けたら、多少なりとも思い出すことは少なくなるだろう。怯えて過ごさずとも済むかもしれない。起きたことの記憶は消せないが、せめて少しでも薄らぐまで、違う土地で暮らすことも検討してみてはどうか。
 そう言って課長は糸川に、「黛を連れてったってくれ」と頼んできたのだった。
「黛くん、僕と東京に行こう」
 誘う声に、一度だけ黛は糸川を見て、また顔を書類に向ける。そうしてしばし黙って書類を見つめ、ぱたりと顔を覆うようにファイルごと額に落とした。
 ファイルの下から、ず、と小さく鼻をすする音がする。
「……うん……行く。ありがとう」
 涙声が震えていた。
 これで黛を助けることができたのなら何よりだと、この時の糸川は安堵していた。