「糸井くん!!」
 糸川が糸井の手首を握って捕獲したのは、駅前の大きな交差点にかかる横断歩道で赤信号に足止めされていたところだった。
 追い付けばおとなしく観念するだろうと思っていた糸井はしかし、捕らえてきた糸川の手を力任せに振り払った。その力の予想外な強さに、糸川は目を瞠る。
「なんで……!」
 振り返った糸井は、息を上げてその目に怒りを湛え、けれど顔色はひどく青ざめていた。
「なんであの人が、こっちに来るの。大阪だけの関係じゃなかったの」
「え? ……何、糸井くん、何言ってるの」
 糸井と黛は初対面のはずだ。なのになぜ糸井が、黛のことを知っていたかのように『あの人』なんて呼び方をするのか、糸川にはさっぱり訳がわからない。
「黛くんは、大阪で親しくしていた同僚だよ。事情があって、僕が東京に誘ったんだ」
「誘った……? 糸川さんが? あの人を東京に呼んだの? なんで!?」
「なんでって……」
 黛の事情は、いくら糸井相手でも勝手に洩らすわけにはいかない。問われても答えられず口ごもった糸川に、糸井は悲鳴を抑えに抑えたかすれ声で押し出した。
「俺がいるのに……!」
「!?」
 糸井の怒りも言葉も意味がわからず、糸川は当惑する。
 そこへ、糸井の携帯が鳴った。
 のろのろとポケットから取り出した、そのディスプレイに表示された名前に、今度は糸川が顔色を変える。
「……なんで三島がきみに電話かけてくるんだよ」
 呆然と呟いた糸川の声に、咄嗟のように糸井がディスプレイを片手で覆う。その仕草に糸川の理性が飛んだ。
「なんで隠すんだ。俺がいない間、隠れて三島と連絡取ってたのか!?」
「違う、そんなんじゃない! 三島さんとは、たまたまで……」
 たどたどしく弁解しているうちに、呼び出し音は一度途切れ、数秒後に再び鳴り出した。それを糸川は、忌々しく睨み付ける。
「……出なよ」
「……」
 糸井は迷って、鳴り続ける携帯の通話ボタンを押した。
「……はい。……うん。……うん、いるよ。……わかった」
 短い会話を交わして、糸井は糸川にその携帯を差し出してくる。
「糸川さんに代われって」
 訝しくその携帯を見つめ、糸川は仕方なく受け取った。糸井の電話経由で、三島がいったい何の用なのか。
「……何」
 剣呑な声に、電話の向こうの三島が苦笑いを漏らす。
『怖ぇなぁ、もう。おまえ、黛くん会社の前に置いてくんじゃないよ。荷物も放置で、携帯も鞄の中で鳴ってるしさぁ』
「おまえに関係ないだろ」
『そうでもねんだなー。俺既にけっこうおまえらに巻き込まれてんだわ。まどろっこしいから、いい加減どうにかしてもらいてぇんだけどさ』
 はぁ、とひとつ息をつき、三島が声色を変える。
『……こっち戻ってこいよ。そんで、俺らの前でちゃんと話せ。いつまでもつまんねえ行き違いやってんな』
 やたら毅然とした声がそう命じて、通話は切れた。
 三島の言う通り、たぶん今の自分たちは、話さねばならないことがたくさんある。気付かないうちに、いつの間にかそんな状況になっていた。
 正直、今の糸川は糸井と冷静に話をできる自信がない。間に誰かいてくれるなら、それが三島でもいないよりましかもしれない。
「……戻ろう。お互いに訊きたいことがあるよね。ちゃんと話そう」
 画面を袖で拭いた携帯を糸井に返して、糸川は走ってきた道を戻り始める。
 その後ろを、糸井は爪先を見つめたまま黙ってついて歩いた。
 会話もなく会社の前まで戻ると、いつも通り不遜な態度の三島と、ひどく心配げな黛が待っていた。ただ糸井を一目見るだけのつもりだった黛は、いきなりの不穏な展開に驚いたことだろう。
「じゃー、どっか入りますか」
 そう言って三島が先頭を歩き出す。黛はきょろきょろと三島と糸川を見比べた。
「え、俺もすか」
「そーよ。黛くんわりと当事者だからね」
「え!? 何かしましたか俺」
「したのは糸川」
 歩きながら、ちらと振り返った三島は糸井と糸川に視線を送る。
「でも、糸井も悪い」
 わかったような顔で語る三島が、ひどく癪に障った。この男が糸川の知らない事情を知っているということが、どうにも受け入れがたい。
 完全個室と書かれた居酒屋に三島は入り、席の空きがあるということで三人も中へ続く。
 四人がけのテーブル席に通され、三島と黛、糸井と糸川が隣り合って座る。最初のドリンクオーダーで、三島は勝手にビールを四つ注文した。飲酒する気にはなれないと抗議すると、「俺の奢りだから」と三島は薄く笑った。
「さあ、本題に入るか。怖ぇ顔してずっと俺のこと睨んでる糸川は、何か言いたいことがあんだよな?」
 ビールとお通しが揃い、しばらくは店員が来ることはない状況が整って、三島が糸川に話を促す。店内はそろそろ客も増える時間だが、個室内はわりと静かだ。
「……三島は、糸井くんと連絡を取り合ったりしてたのか」
 低い問いに、三島は頬杖をついて中ジョッキのビールを一口飲み下した。糸井は隣で小さく首を横に振る。
「取り合ってたとか、そんなんじゃねえな。俺が香港から帰任して住み始めた部屋が、偶然糸井んちの近所だったんだ。ちなみに俺は糸井んちの場所なんか知らなかった」
 たまたまだと言った糸井の弁解と三島の回答が一致したことに一瞬の安堵を覚えたものの、ジョッキを置いた三島は信じられないことを口にする。
「でも、盆正月は一緒に過ごしたな。なぁ糸井、一緒に年越ししたもんな」
「……は?」
 思わず糸川は隣の糸井を振り返って凝視した。糸井は膝の上で両手を握って、青い顔で俯いている。
「おまえ、糸井は盆正月、実家に帰省してると思ってたんだろ」
「……違ったの?」
「糸井はもう実家に帰ったりできないんだぜ。家族から縁切られちまって」
「……」
 どういうことなのか、意味がわからなかった。盆も正月も、糸井は毎年実家へ帰省すると言っていて、そのタイミングで毎回電話もしていて、会話に矛盾を感じたことはなかった。
 けれど三島の言うことが本当なら、糸井は意図的に糸川を騙していたことになる。
「本当なの……?」
 問うた声がやたらと細っていた。糸井は問いに頷きもしなかったけれど、三島への恨み言を小さく絞り出す。
「……言わないでって言ったじゃん……」
 それが何よりの肯定だった。
「嘘、ついてたんだ?」
「……」
「いつから? 縁切られたって、いつの話?」
 訊きたいことが多すぎて、矢継ぎ早の問いが詰め寄る口調になってしまう。
 糸井は観念したように大きく息をつき、手で額を覆った。
「……一昨年の、年末です」
 答えに愕然とする。二年も前の話。しかもそれは、糸川が大阪に赴任する前のことだ。年末なら、まだその赴任の話もしていなかった頃のはず。
 どうして。
 なぜ話してくれなかった。
 盆暮れの帰省を欠かさない、仲の良い家族ではなかったのか。その家族から縁を切られたなんて、そんな大事な話を、これから離ればなれになるという時期になんで隠したりした。
「そんなに、僕が頼りなかった? 信用できなかった? ……話しても役に立たないと思った?」
 傷ついたのではなかったか。教えてくれていたら、癒してあげたかった。傍にいて、支えてあげたかった。自分がいるから大丈夫だと。
 糸井にとってのそういう存在でありたいと、糸川は思ってきたのに。
「信用はされてねえんだろうな」
 それを否定する声を、三島が投げ掛ける。
「糸井はもうずーっと、おまえの浮気を疑ってるぜ」
「……浮気?」
「三島さん!!」
 今まで俯いているばかりだった糸井が、弾かれたように顔を上げた。まるで三島を、それ以上言うなと止めるように。
 けれど三島はそんな制止は意にも介さず、飄々とジョッキを持ち上げる。
「糸井ぃ。おまえの勘違いだと思うぞ。一時期、黛くんはストーカー被害に遭ってて、糸川がそれを保護して自宅に匿ってたことがあるんだと。それをおまえがたまたま見かけて、糸川が黛くんを部屋に連れ込んでると思い込んだだけなんじゃねえの」
「え、俺!?」
 三島の隣で置物のように黙ってただ状況を見守るしかなかった黛が、急に糸川の浮気相手疑惑をかけられて動揺した。
「糸川くんと浮気!? ないないない!! いっつも糸川くん、奥さん……糸井さんの惚気話ばっかしてましたよ。俺となんか何っにも、何っの関係もないですよ!」
 力を込めた黛の全否定に、僅かに糸井の表情が和らぎ、彼が安堵を感じているのがわかった。
 でも、だからこそ本当に糸井が、糸川の浮気を疑っていたのだということが伝わってしまう。そして、だから先程黛の姿を見て走り去ったのだと、不可解だったその行動の理由も知れる。
 どっと、巨大な失望のようなものが糸川の胸に押し寄せた。
「……いつの話だよ……」
 弱い声が漏れる。
 糸川が黛を自宅に呼んだりしていたのは去年の秋頃までの話で、それ以降は特別な対応はしていない。もし糸井が二人の関係を勘繰るような場面を見たとしたら、それよりも前ということになる。
 一年以上、糸井は糸川が大阪で浮気していると思っていたのか。
 そう思ったまま、何も言わず、何もなかったように振る舞い続けてきたのか。
 この一年で糸川は何度糸井を抱いただろう。何度糸井に好きだと伝えただろう。
 その間糸井は、どんな気持ちで抱かれていたのだろう。糸川の言葉を聞きながら、いったいどんなことを考えていたのだろう。
 糸川に他の相手がいると思いながら、どんな気持ちで。
(……うわ、無理だ)
 思考が停止して、心が折れた。
 疑われているなどとは考えもしないで、無邪気に糸井の体を求め愛を囁いていた自分が彼の目にどう映っていたのか、想像すると吐きそうだった。
 一言そういう現場を見たと言ってくれれば、潔白はいくらでも証明できたし、そうすることで糸井の不安も解消させられたのに。
 結局、そういうことだ。家族のことにしても、浮気疑惑のことにしても。
 肝心なことは何一つ話せない相手。
 それが糸井にとっての糸川だ。
「……僕は、きみの何だったんだろう」
 情けない言葉とともに、涙が落ちた。
 それを目にした隣の糸井が息を飲むのがわかって、糸川は目元を拭って立ち上がった。
「ごめん、今は冷静に話せそうにないや。また改めて……連絡するよ」
 キャリーを引いて退店していく糸川を、誰も呼び止めなかった。
 店を出て一人になるとまた涙が溢れそうで、ぐっと堪えて顔を上げると、曇った空の隙間に光る小さな星が目に入る。
 二年前のクリスマス、一生一緒にいたい、絶対に幸せにするなどと、プロポーズめいたことを言った夜のことが遠く思い出された。
<END>