アネモネ -side F- 02


 ほとんど眠れずに一晩を過ごして、あれこれ考えた挙げ句に糸井はひとつの結論に至った。
 現状維持・・・・
 それ以外に望むことなど糸井にはないのだった。
 糸川を問い詰めたりなんかできるはずもない。だってどうする、もし浮気を問うて、肯定されて、バレたならもういいと切り捨てられてしまったら。大阪の恋人がいるから、もうおまえはお役御免だと言われてしまったら。
 今はまだ、彼らの逢瀬を知っているのは糸井だけで、糸井が知っていることを糸川は知らない。ならば糸井が知らないことにしてしまえば、その事実もなかったことにできる。
 知らないふりなら得意だと思う。今までだっていろんな不都合に蓋をして生きてきた。それで糸川の隣にいられるのなら、きっとうまくやれるはずだ。
 チェックアウトしてすぐに駅に行き、新幹線ホームの入場券を買って改札を入る。そしていつも自分が乗ってくる時間ののぞみの到着を待って、降車客たちと一緒に再び改札を出る。
 すると改札前で待っていた糸川の姿が見えて、糸井は複雑な心境を押し隠してその傍へ歩み寄った。
「お疲れ様。大丈夫?」
「え?」
 問われ、何か見透かされただろうかと内心焦りながら糸井は糸川を見返す。
「なんだか疲れた顔してるから。ちょっと目も赤いね……寝不足?」
 敏さに驚きつつ、糸井は片目をこすって少し俯いた。うまい言い訳を考えなければ。
「ああ……ちょっと最近仕事が忙しくて。夕べも会社出たのがわりと遅かったんで、寝るの遅くなっちゃったんです。でも新幹線で寝てきたんで、大丈夫ですよ」
「そうなんだ。今の時期って糸井くんたちの仕事は繁忙期なの?」
「まあ、そうですね。印刷所とかも休みになるお盆の前に入稿済ませてしまわないといけないので、盆正月の前はどうしても忙しくなります。今は担当してる作家さんの新刊の発刊が重なったので余計に、ですね」
「そっかぁ……」
 お盆進行で忙しいのは本当。その中でも、糸井は今回金曜に早上がりできるよう、前倒しで仕事を進めてきた。
 その頑張りは、結果的に裏目に出てしまったけれど。
「……一段落するまで、会う頻度下げた方がいいのかもねぇ」
 気遣うトーンでそんなことを言われ、糸井は無防備に「え」と声を上げてしまった。
「土日にゆっくり休めないと、平日の疲れが取れないでしょう? 東京大阪間、移動するだけでも疲れるし」
 言っている内容は自分への気遣いだとわかる。でも今は、その言葉の裏を読んでしまう。
「……あぁ、そうですね」
 俺は邪魔? 来ない方がいい?
 俺が来なければ、あの人と一緒にいられるから?
 そんなことは訊けない。でも気遣いの真意はそういうことなのかもしれない。
 気分がどんどん落ち込んで顔を伏せてしまった糸井を、けれど糸川は笑顔で覗き込んでくる。
「糸井くんの都合さえ良ければ、しばらく僕が東京に行くってことでもいいしね?」
「え……」
 そう言ってくれるということは、あの人よりこちらを優先してもいいと思ってくれているのだろうか。現在の序列は、まだ自分の方が上なのだろうか。
 だけど、それでは糸川があの人と過ごす時間を自分が奪ってしまうことになる。
「でもそれは、悪いので」
 糸川の気持ちを尊重するなら、胸は痛いけれど、それは辞退した方が良いのだろう。
 やがて糸川の部屋に着き、二人で中に入る。中の空気がいつもと違う感じがするのは、気のせいなのかどうなのか。
 いつもと変わらない帰宅後のキスにもなんだか違和感があって、糸井は少し、強く糸川に縋った。
 不安で仕方がない。不快なこれを掻き消してほしい。
 好かれていると思いたい。まだ大丈夫だと思わせてほしい。
 せめてこの身のどこかに、関係を切らない理由に足る価値を感じていてほしい。
「糸川さんは、先にベッドに行ってて。俺はシャワー借ります」
 息苦しくなって、糸川から離れてバスルームに逃げ込んだ。その小さな空間の中でも、糸井は無意識に視線を隅々まで走らせてしまう。
 見慣れないものはないか。糸井と糸川のものではない歯ブラシや小物があったりしないか。糸川のと違う毛質の髪が落ちていないか。
 隠すなら、完璧に隠しておいてほしい。ずっと知らないふりをさせてほしい。
 何もなかったと信じていたい。週末によく遊ぶ仲なだけだと。終電までには帰った可能性だってある。あの人はゲイではなかったかもしれない。
 そう思っていたい。そうでなければ隣にいるのが苦しすぎる。
「信じてる……」
 自分の服の襟元を掴んで、糸井は呟いた。
 糸川を信じている。そう思い込むことができれば、少しは楽になれる気がした。
 好きだと、何度も言ってくれた。一生一緒にいたいと。この襟元に光る指輪を渡してくれたときにも、絶対に幸せにすると。
 その言葉を信じるしかない。糸井には、糸川の言葉にしか拠り所がないのだから。
 それなのに、一度芽生えた猜疑は糸井の内側に蔓延はびこって離れてくれない。
 信じようと思うそばから、自分を抱く腕が他の誰かを抱く姿を想像する。何が足りなかったのだろうと、自分の不足を責めて糸川に体を尽くそうと躍起になってしまう。
「……もっと俺でよくなって」
 どうにか自分だけで満足してもらえないだろうか。そのためなら何でもするのに。何でもするから、他の人を求めないでもらえないだろうか。
「好きだよ、糸井くん」
 注がれる愛の言葉。自分の他にも聞いている誰かがいるのだろうか。
 本当は、大して好きじゃなかったりして。
 本当は、もう飽きられてたりして。
 本当は、……――
(やだなぁ……)
 抱かれながら思考が発散して、心がバラバラになる感じ。嫌だと思いながら、でもどうしようもないので耐えるしかない。
 いつまで続くんだろうと、半ば絶望しながら枕に縋った。
 涙を見せないようにするのが精一杯だった。