うまく眠れない日が増えて、寝不足が食欲不振を呼んだ。一方で夏季休業前の仕事は多忙を極め、それが一段落して休みに入ると、とたんに糸井は体調を崩した。
人間の体は素直だ。睡眠と栄養が足りないところに疲労が加わると、ちゃんとガタがくるようにできている。
頭痛に鼻水、発熱、倦怠感。久しぶりに風邪らしい風邪をひいて、一人暮らしの糸井はやむなく近所のコンビニに出向いた。
とりあえず食べられそうなレトルトパウチのお粥と、ゼリー飲料、スポーツドリンク、エナジードリンク。よろよろとかごに放り込み、他に何がいるんだっけ、と考えるけれど頭が回らない。
糸川も今日から夏休みに入ったはずだ。一日は仕事の残務処理に充てるけれど、明日からは東京の実家に帰省すると言っていた。
糸井くんも夏休みは実家に帰省? と訊かれたので、はい、と糸井は答えていた。新幹線の距離の実家、今年は法事があるので夏休みいっぱい帰省すると嘘をついた。
糸井に帰れる実家はない。法事もない。だけど、電話でその話をしたときには既に体調不良の予兆があって、もしそれを糸川に知られたら看病すると言い出しかねない。そんな迷惑をかけることは到底できないし、今の糸井は正直、糸川と長い時間を過ごすのが辛い。
じゃあまた、次の週にでも僕が糸井くんちに行くね、と糸川は残念そうに言った。その電話の向こうにも、もしかして誰かがいるのではないかと、糸井は思っていた。
ごほごほ、とマスクの中に咳がこもる。ああそうだ、冷却シートも買わないと、と隣の棚に移動して箱を手に取る。それを入れたかごをやたら重く感じた瞬間、そのかごがひょいっと横から取り上げられた。
「……?」
斜め下向きになっていた視線を上げると、そこに長身の姿。
「……三島、さん?」
ぼんやり認識して呼び掛けると、かごを持った三島は不機嫌そうに眉を寄せる。
「なんだよ、夏風邪か」
そういえば近所に住んでいたのだった。最寄りのコンビニが同じだと、こんな偶然が起きてしまうものなのか。運が悪い。
「はぁ……」
「ナントカがひくやつだな。糸川はどうした」
「糸川さんは……今日はまだ、大阪かな。でもこの休みは会う予定ないんで」
「あぁ? んだよ、彼氏のくせに使えねえな。呼んで看病させりゃいいじゃん」
「そんなわけには……。お願いだから知らせないでよ、絶対」
「口止めばっかだな、おめぇはよ」
はーっ、と盛大に息をついて、三島はかごの中に、冷凍うどんやらビールやら菓子やらを放り込み始める。
「え、ちょっと、何やって……」
困惑しながらもかごを取り返す元気もなくただ見ていたら、三島はさっさとレジへ行き、会計を済ませて大きなビニール袋を持って店外へ出た。
「ほれ、行くぞ。どこだおまえんち」
「え、あ、お金」
「いいから早く歩け。病人がうろうろ外出すんな」
脛を蹴られそうになったのをギリギリで避けて、糸井は手ぶらでふらふらと歩き出す。
湯気が立ちそうな頭は全く働かず、急かされるままに部屋へ帰り着き、荷物を持った三島を招き入れた。
「ほれ、手ぇ洗え。冷蔵庫借りんぞ。うお、なんだこの部屋、植物園か。ほれ、服着替えろ。はよ布団入れ」
指示を受け、あれよあれよという間にベッドに寝かされた。額には冷却シート、脇には体温計。
「うわ……九度六分。死ぬんじゃねえの。水分とれ」
口元にスポーツドリンクのペットボトルに差したストローを押し当てられ、ほとんど反射で吸い上げた。冷たくて甘い液体が喉を通って胃に落ちていくのがわかる。意識していなかったが、とてものどが渇いていたのだということにそのとき気付いた。
「なんか他にいるもんあるか?」
「ううん……」
「なら寝ろ」
ぶっきらぼうな声とともに、ひんやりとした三島の手の甲が首筋に押し当てられ、それが離れる。その指先を見送りながら、一人にしないで、と強く思った。
「……ここにいるから」
口に出したつもりはないのに、応えるように三島は言って、ベッドを背もたれにして床に座る。
その後頭部をぼんやり見ていたら、いつの間にか眠りに落ちていた。
三島という人は、昔から分かりにくい人だった。
基本、いつでもどこでも誰に対しても、口も態度も大いに悪いので、知り合ったばかりの場では大抵敬遠される。そして打ち解けるまでに時間がかかる。怖い人だと誤解も受けやすい。
けれど、一度懐に入れた相手に対しては、驚くほどの情の深さを見せる。口や態度の悪さは変わらないが、その行動は結果的にとても優しい。
サークルの飲み会でつぶれてしまったメンバーのことも、面倒くさいと罵りながら、最後まで介抱してあげるのはいつも三島だった。サークル運営に関する大学側との手続き事も、一通り悪態をついて嫌がりつつ、頼まれれば最終的に断るところを見たことがない。
そういう人だから、なんだかんだで仲間から三島は慕われていたし、信頼も篤かった。就職してからは外面も身につけたようなので、順調すぎる出世を果たしたのは得心のいく結果だ。
三島の分かりにくい優しさが、孤独だった糸井には心地よかった。同時に、優しくない三島を知る自分に、変な特権意識を持っていたようにも思う。
粗雑に扱われることを、『三島が唯一気兼ねなく接することのできる相手』と都合よく解釈していた。愚かな思い込みに気付いたのは、糸川に愛されるようになってからだ。
三島の特別になりたくて必死だった。
今はそんな過去の自分が哀れに思える。
でも、今も自分の在りように大差はないのかもしれない。要するに執着する先が変わっただけではないのか。
今だって、糸川の特別でありたくて足掻いている。
暑くて目が覚めた。
額に腕を置くと、冷却シートが汗で滑ってぬるりとずれる。着ていたTシャツは汗だくで、お陰で熱は下がったのか痛みの取れた頭がずいぶんと軽い。
部屋を見回すと、日が暮れたまま電気のついていない部屋はかなり暗い。その中に、携帯の画面が白く光っている。
「起きたか」
振り返った人影がこちらへ乗り出して、大きな手が冷却シートの剥がれた額に触れた。
「……だいぶ下がったか? すげえ汗だなおい。着替えと替えのシーツどこだよ」
「三島さん……」
「なんだ」
「ありがと、助かった」
「高ぇぞ」
「ワンコインにまけといてよ」
「ガキの小遣いか」
ふふ、と笑うと三島も口元を緩めた。
よっこらせ、と腰を上げると、キッチンに行って冷蔵庫を開け、飲みかけのスポーツドリンクとビールの缶を持ってくる。飲め、とペットボトルを糸井に押し付けて、自分は缶のプルトップを上げた。
「もう帰るの面倒くせぇから泊めろよ」
コンビニで買ったビールは一缶だけだったはず。糸井の容態が落ち着いたことを確認するまで、飲まずにいてくれたらしい。さらに帰るのが面倒くさいと言いつつ、なんだかんだ糸井を心配してくれているのだ。
(そういうとこだよ……)
あれだけ玩具のように扱ってくれたくせに、こういうときは常識的で優しいんだから。
うんざりと、七年も抜け出せなかった沼の深さを懐かしく思う。
「……ほんとに糸川呼ばなくていいのか?」
その懐かしさが、もう二度と三島の前で出すことはないと思っていた弱さを誘い出したのかもしれない。
自分の中にしまっておけばいいと思っていた、重くて嵩張る昏い感情が、急に抱えるに耐えられないものに感じられた。
「三島さんは……」
「ん?」
「どうして糸川さんとお互いにゲイだってことを知り合ったの」
唐突な問いに、三島はビールの缶を傾ける手を止め、怪訝そうに眉を寄せて斜め上を見上げる。
「どうして、って。たまたま鉢合わせしたんだよ、お互い馴染みのゲイバーが一緒で」
「ゲイバー?」
「そ。平たく言やぁ、ワンナイト相手漁りの場だな」
「……ゲイバーってそういう所なの?」
「んー、ゲイバーにもいろいろあるけどな。俺らが使ってたのはどっちかったら上品な方で、酒飲むだけのやつもいるこたいるけど、だいたいはヤリ目だな」
缶を置いて、三島はつまみに豆菓子の小袋を開ける。
「まあ、最初会ったときはびっくりしたわ。会社で澄ました面した真面目そうな同期が、店で入れ食い状態で群がられてたからな。俺よりモテてたんだぜ、あいつ。安全そうに見えるのが良かったんだろうけど、なんか悔しくてなー」
はは、と笑う三島の話に心臓がぎゅっとなる。
知らなかった糸川の過去。昔のことをとやかく言う気はなく、これまでも本人に聞いたりしたことはない。でも、そんなふうに遊んでいた時期があったとは想像していなかった。
「じゃあ……糸川さんって、不特定多数と同時進行することに抵抗があるタイプではない、てことだよね」
真面目で安全そうな見た目から、糸井も完全に糸川を誠実なタイプだと思い込んでいた。実は根はそうではなかったのかもしれない。
知らない誰かと自宅に入っていった姿と符合するその過去に納得しながら、糸井の気持ちはどんどん沈んでいく。
「なんだ。浮気でもされたか? 糸川大阪で遊んでんのか」
駄目押しのように興味津々で問われ、糸井は顔を腕で覆った。
「浮気現場目撃したとか? あ、問い詰めて喧嘩してんのか。だから糸川呼べないんだな?」
「……三島さん、もう帰っていいよ」
「あ、てめ! 熱下がったとたんにその態度か」
「だってもう三島さんがいるとよけい熱が上がりそう。問い詰めたりできるわけないじゃん! 何も聞けっこないよ。俺の方が遊びだとか言われたらどうすんだよ」
「……ふーん?」
ビール片手にベッドに頬杖をついて、三島は半眼で笑う。
「相変わらず好きなやつの前ではお利口さんやってんのか。俺に対しては言いたいこと言うようになったのにな」
「三島さんのことはもう好きじゃないからね」
「ふはっ、可愛くねえ」
楽しそうに、三島はビールの底を上げた。
「俺に言う半分でも、糸川に言いたいこと言ってやればいいと思うけどな。その方が、あいつだって喜ぶだろ」
三島の言うアドバイスらしきものは全く聞き入れる気になれず、糸井はベッドから体を起こすと、三島のつまんでいた豆菓子を横から奪って小袋ごと口に流し込んだ。
「あー! おまえ!!」
「お腹減った。お風呂入ってくる」
「横暴だ! 糸川に言いつけてやる!」
「その前にその口縫い付けてやる」
「えっ、こわっ。糸井こわっ」
「嫌なら全部黙っといてね。全部」
三島の肩にずっしりと手を置いて、嫣然と笑う。
そのままバスルームへ入っていった糸井の背を見つめ、三島は可笑しげに、「おもしれぇ」と呟いた。
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