「長いつき合いに必要なのはサプライズだと思うんです」
昼休憩、会社の談話室で広げた手弁当のサラダを咀嚼しながら、眉を寄せた円谷が深刻そうに言った。
向かいには近所の弁当屋で買った揃いのヒレカツ弁当を食べる糸井と芦田がいる。
二人は円谷の唐突な話に顔を見合わせた。「何の話だ?」「さぁ……」という無言の会話が視線だけで成立する。
「彼氏とつき合って六年になる友達がいるんですよ。学生時代から続いてて、それだけ長いとマンネリとか気になるじゃないですか。でも彼氏がちょくちょくサプライズしてくれるみたいで、この間も彼氏が急に部屋に遊びに来たときに花束持ってきたんですって! 誕生日でも記念日でもないのに!」
話の続きを促してもいないのに円谷は一気に喋り切って、はぁー、と悩ましげにため息をついた。
「うちの彼なんか、まだつき合ってやっと一年経ったとこなのに、一年目の記念日も直前まで忘れてたんですよ! 私がそれとなーく話しても全然気付きもしないから、もうやむなく直接話法で『一年記念日のお祝いどうする?』って訊いてやっと認識してくれた感じで。その後すらどうでもいいっていうか、私のやりたいことにつき合うよーみたいなノリで。なんかあんまり好かれてないのかなって、自信喪失中なんですよね今……」
ため息を繰り返す円谷の弁当の中身はなかなか減らない。大した量でもないそれはささみとブロッコリーがメインの減量食で、最近円谷はそればかり食べており、いい加減飽きて腹が減っても食が進まないのだという。
糸井から見れば円谷の体型は十分華奢な部類で、ダイエットなど必要ないのではないかと思う。それでも痩せてきれいになりたいと頑張っているのだから、よほど恋人の歓心を引きたいのだろう。
「そういうタイプの人ってだけなんじゃないの?」
ヒレカツを一切れ、円谷の前に差し出しながら芦田が言う。
「鈍感っていうか、なんつうか、気が利かないっていうか。そういう人っているじゃん、仕事してても。だからって円谷のことがさほど好きじゃないとか、必ずしも好意の量と比例してるってもんでもないだろ」
芦田の意見は糸井にも同意できるもので、ウンウンと糸井は首を縦に振った。
ゆっくりと目の前を八の字に動くヒレカツを、食い入るように円谷の目が追う。
「そうかもしれないけど……、それでも私は、会ってない間にも彼が私を想って何かを計画してくれたっていう事実がほしいんです! どんなに小さなことでもいいから!」
言い切ると、円谷は芦田の箸を折る勢いでヒレカツに食らいついた。そしてテーブルに突っ伏して、「脂~、旨いよ脂~」と喜びと悲しみをない交ぜにしながら悶える。
「……サプライズねぇ?」
顎をつまんでその姿を眺めながら、しばし考え込む糸井だった。
円谷の愚痴に触発されたわけではない、と言いたいところだが実際のところ完全に影響されて、その週の金曜の夜、糸井は一日予定を前倒して新大阪駅に降り立った。
二週間前は糸井の誕生日で、東京に来た糸川にいろいろと祝ってもらった。糸川がよく行くというショップを回って、安くはない秋物の服や靴を見繕ってくれて、糸井の趣味にも合うことを確認するなり遠慮する隙も与えずに購入してプレゼントしてくれて。
「恋人に服を贈ることの意味って知ってる?」
そんなふうに意味深に問われてしまっては、糸井は受け取るしかなくなってしまう。贈った服を着ているのを、脱がせるまでが贈り手の楽しみだと、暗に言われているようで。
夕食は気取らないダイニングバーを予約してくれていて、美味しい食事と、ほんの少しの酒を飲んで、いい気分で帰宅して。ふわふわとした浮かれ気分のままに、糸川に抱かれて眠った。
他の誰に祝われずとも、十二分に幸せな三十歳の誕生日だった。
誕生日に限らず、糸川はいつも糸井を喜ばせようとしてくれる。行動だけでなく、優しい言葉の数々にも、いつも糸井は救われて喜びを感じている。
自分がしてもらえて嬉しかったように、糸川にも何か喜んでもらえることを返すことができないだろうか。
円谷の言うサプライズでそれが叶うならと、糸井は糸川に内緒で、土曜の朝ではなく金曜夜の新幹線に乗ったのだった。
糸川とはスケジュール共有アプリで日々の予定を共有していて、まめな糸川は出張や飲み会の予定を毎回登録してくれている。飲み会の日には場の写真を送ってくれたり、帰宅したら必ず電話をくれたりする。心配もさせてくれない、本当によく出来た恋人だと思う。
そんな糸川の今夜の予定は何もなし。忙しそうだから残業はして帰るのだろうけれど、そうは言っても金曜だし明日は早起きの予定だろうし、さほど遅くもならないだろう。
大阪の部屋の合鍵まではもらっていないので、部屋の前で待っていて驚かせてみようと、糸井は口元の笑みを隠せずに糸川の部屋へ向かった。
いつもは必ず駅に糸川が迎えに来てくれるから、一人で歩くのは初めての道。でも、予定外の糸井の姿を見つけて喜んでくれる糸川の姿を想像すれば寂しさはない。
マンションに着き、明かりのない部屋の前の廊下でしばし待つ。二階の共有廊下からは駅に続く明るい道がよく見えて、ここで待っていれば糸川の帰宅もすぐにわかるだろう。
夜になってもまだ暑い七月下旬、持参したハンドタオルではたはたと顔を扇ぎながら手すりから通りを眺めて、待つこと三十分ほど経った頃だろうか。
「あ、……――」
通りに糸川の姿が見えて、嬉しくなって身を乗り出した一瞬後、糸井は慌てて隠れるように身を縮めた。
糸川の隣に誰かいる。
(誰……?)
糸川と比較すると小柄な男性。歳は自分たちと同じくらいだろうか。糸川と親しげに談笑している。
会社の人? 近所に住んでいるとか?
マンションの前で別れるのだろうかと思ってこっそり見ていたら、二人はそのまま一緒にマンションのエントランスをくぐってくる。そうこうしているうちに階段を人が上がってくる気配がして、動揺した糸井は咄嗟に、隣室のメーターボックスの陰に姿を隠した。
「ほんま、毎週ありがとなぁ」
「いいよ、僕もきみが傍にいてくれた方が精神的に助かるし」
ビニール袋のガサガサ擦れる音、鍵を開ける金属音、それから間違いなく糸川の声が聞こえてくるのに、糸井は混乱する。
ドアが開き、間もなくそのドアが閉じられて内側から施錠する音が聞こえて、話し声は聞こえなくなった。
そっとメーターボックスの陰から顔を出して覗くと、そこに二人の姿はなく、二人で部屋の中に入ったのだと知る。
異常に速まった自分の心音が、頭の中で鳴っているみたいにわんわんと響き始める。
毎週。
きみが傍にいてくれた方が。
二人の親密そうな会話が耳に返って、糸井は血の気が引いて頭が真っ白になりながら、まずはぽつりと呟いた。
「俺が悪い」
状況を整理しなければ。
糸川は糸井と会っていないときは毎週、あの人を自宅に招いていたのだ。あの人に、自分の傍にいてほしくて。
そんな話は聞いたことがなかった。そもそも糸井は、糸川の大阪での人間関係を全く聞いたことがない。糸井と会っていない間、誰とどんなふうに過ごしているのか。
糸井の知らないその時間を、糸川は、糸井ではない誰かと過ごしていた。
俺じゃなかった。
大阪での時間を糸川さんが一緒に過ごしていたのは、傍にいたいと思っていたのは、本当は俺じゃなかったんだ。
大阪行きを引き留めなかったのは俺で。離れることを後押ししたのも俺で。結果的に俺たちが一緒に過ごす時間は半分以下になって。
俺が手放した糸川さんの時間を、彼が誰と過ごそうと何も言えた立場ではない。
そんなことにも思い至らないで、彼の気持ちも知らないで、喜ばせたいとかサプライズだとか浮かれて自分のことしか考えないで、糸川さんの本当の都合も聞かずに金曜の夜に押し掛けようとして。
俺が思うより糸川さんは俺を好きでいてくれてるんじゃないか、なんて。バカみたいに思い上がってたな。俺が来たら糸川さんが喜んでくれるなんて、本気で思ってたのかな。正気の沙汰じゃないな。
せっかく糸川さんはこのことを俺に伏せていてくれたのに。少なくとも伏せている間は、俺との関係も続けていいつもりでいてくれたのだろうに。
余計なことをして、知らなくていいことを知って、無駄にショックを受けて、いったい何をやっているんだろう。
ほんとに俺って人間は、どうしようもない。
「……全部、俺が悪い」
真夏なのに、再度呟いたくちびるが凍えそうだった。
駅まで戻って、空きのあったビジネスホテルに宿をとる。質素なシングルの部屋に入って一人になると、見てきた光景が何度でも眼裏に蘇った。
同時に、すぐ耳元で弟の声がする。
――おまえなんか、死ねばいい。
低くて冷たい声。もう何度、その声を聞いただろうか。
――おまえがいない方が、みんな幸せになれるよ。俺も、母さんも、……ほら、おまえが自分の恋人だと思っていた男も。
自分が頭の中で捏造した台詞だとわかっていても、今の糸井には刺さりすぎて、痛くて涙が頬を伝う。
その通りなのだろう。自分がいなくなれば、糸川はあの人と幸せに暮らしていくのかもしれない。きっとその方が、遠距離で会うにも不自由する相手とつき合い続けているより、よっぽど。
そうは思うけれど、でも、それでも。
(……糸川さんにだけは、死ねばいいとは、思われたくないなぁ……)
見下ろした自分のてのひらは、まだ糸川の体温を覚えている。
それを手放してしまえる覚悟はまだ持てそうもなくて、自分の未練に呆れる思いで、糸井は泣きながら哀しく笑った。