アネモネ -side S- 02


 翌朝、宣言通り早起きした糸川は、黛に手伝わせて部屋を掃除し、その黛を自宅まで送り届けてから、新幹線の到着時刻に合わせて駅まで迎えに行った。
 いつもと同じ時間に、糸井が他の乗客たちと一緒に改札の奥からやって来る。その姿を人混みから見逃さないよう首を伸ばした糸川に、いつもは満面の笑みで小走りに寄ってくる糸井の表情が、今日は少し疲れて見えた。
「お疲れ様。大丈夫?」
「え?」
 問うた糸川を、糸井はきょとんと見返す。
「なんだか疲れた顔してるから。ちょっと目も赤いね……寝不足?」
 指摘に、糸井は片目をこすって笑んだまま少し俯いた。
「ああ……ちょっと最近仕事が忙しくて。夕べも会社出たのがわりと遅かったんで、寝るの遅くなっちゃったんです。でも新幹線で寝てきたんで、大丈夫ですよ」
「そうなんだ。今の時期って糸井くんたちの仕事は繁忙期なの?」
「まあ、そうですね。印刷所とかも休みになるお盆の前に入稿済ませてしまわないといけないので、盆正月の前はどうしても忙しくなります。今は担当してる作家さんの新刊の発刊が重なったので余計に、ですね」
「そっかぁ……」
 並んで歩きだして、糸川は考える。
 糸井は糸川の仕事のことをよく慮ってくれている。そもそも糸川の大阪行きの背中を押してくれたのも、糸川に仕事を頑張ってもらいたいという糸井の心遣いだった。
 同じように、糸川も糸井の仕事を応援したいと思っている。糸井が大事にしている装丁デザインの仕事を、頑張ってもらいたいしその邪魔にはなりたくない。
 まして、疲れているところを無理させて体調を崩させたりもしたくない。
「……一段落するまで、会う頻度下げた方がいいのかもねぇ」
「え」
 一時的対応策の一案として呟いた糸川に、糸井が弾かれたように振り向いた。
 二週間に一度、交代で相手のところに会いに行くという今のシステムを持ち出したのは糸井の方だ。その順番通りに、ほぼ隔週で定期的に会っている二人だが、忙しくて時間を取りにくいのなら無理に間隔を厳守しなくても良いだろう。
「土日にゆっくり休めないと、平日の疲れが取れないでしょう? 東京大阪間、移動するだけでも疲れるし」
「……あぁ」
 そうですね、と呟いて糸井は顔を伏せた。
 その浮かない表情に、もしかして糸井は会う頻度が下がることを寂しがってくれているのだろうかと思い当たる。わざわざそれを指摘して茶化すようなことはしないけれど、それならかわいいなと糸川は嬉しくなってしまう。
「糸井くんの都合さえ良ければ、しばらく僕が東京に行くってことでもいいしね?」
「え……」
 その提案に少しほっとしたように頬を緩めた糸井だったけれど、小さく笑って首を横に振った。
「でもそれは、悪いので」
 そんなことを言う糸井を、相変わらず義理堅くて遠慮深い子だな、と糸川は思う。
 遠慮しなくていいのにー、と言っても糸井は笑うばかりで、そんなやり取りをしているうちに二人は糸川の部屋に到着した。
 鍵を開け、二人で玄関に入り、どちらともなく顔を寄せる。続くのは、ちゅ、と触れ合うだけのいつものキス。
 それをほどいて顔を離そうとしたら、追うように糸井が糸川の下くちびるを吸ってきた。
(お?)
 少し驚くのは、こういう積極性を糸井が見せる機会はさほど多くないから。基本的に恥ずかしがりで、謹み深い性格の糸井だ。
「はー……」
 糸川を壁に追い詰め、その腰にぎゅっと腕を回し、肩口に顔を埋めて長く息を吐く。
「ぎゅってして」
 耳元で珍しく甘えたことを言う糸井の髪を撫でて背を抱いて、糸川はふふっと笑った。
「お疲れですねぇ」
「……ん」
「少しベッドで休む?」
「休まない」
 首を振って、糸井は顔を起こして体を離す。
「糸川さんは、先にベッドに行ってて。俺はシャワー借ります」
 真顔でそう言った糸井は、さっさと部屋に上がってバスルームに入っていく。
 玄関に残された糸川は、その後ろ姿を呆気に取られて見送った。
(休まない……ベッド行ってて……シャワー借ります……)
 ということはどういうことかと、考えずともそれが糸井の回りくどいようで実はかなりストレートな誘い文句だと気づく。
(いやちょっと、かわいすぎるでしょ僕の彼氏)
 今度黛にのろける機会があったら、このことも絶対に聞かせてやろうと糸川は決めた。


 十分に冷房が効いた夏の寝室に、二人分の熱が絡まって沈む。
 家具付きの部屋に備えられたシングルベッドが軋む度、うつ伏せになった糸井の背中がしなやかに撓んで荒い呼吸に上下している。シャワーを浴びたばかりの肌に汗を浮かばせて。
「あ……い、く、糸川さ……」
 細い声が切迫して、繋いだ糸川の手を強く握り締めるのに、濡れた隘路を無遠慮に出入りする律動を速めていく。
「ん、んぅ、あ、あ」
 突き上げる度に押し出されるように漏れる喘ぎ。糸川を受け入れた襞はギリギリまで引き伸ばされて、ひくひくと細かく震えながら糸川を締め付けて絞り上げる。
 糸川の形を完全に覚えたそこにはもう拒むような抵抗感はなく、それでいていつでも狭くてきつく、うねるように絡み付く内壁の圧にたまらず糸川は眉をきつく寄せた。
「ぁ、……あっ……」
「……っ、く」
 頂を越えた糸井のひときわ強い締め付けに遭って、その肚の奥に糸川も精を放つ。それは二人を隔てる薄い膜の内側に蟠り、糸井の体内へは浸食しない。
 けれど引き抜こうとしたタイミングで糸井の襞がきゅうっと窄まり、膜だけが糸井のなかに残された。
「わ、ごめん、ゴム外れた」
 中途半端に抜けたゴムの口から、とろりと白い精液が漏れ出して、うつ伏せた糸井の内腿を伝って濡らす。その様がひどく扇情的で、糸川は一瞬見入ってしまった。
「なんか……中出しされたみたい」
 呟いた糸井は体を仰向けに返しながら股を大きく広げ、後孔に指を伸ばしてずるりとゴムを抜き出し、口をきゅっと結んでごみ箱へ投げる。
 そして糸川の後ろ首を引いて深く口づけて、合間に「まだ終わらないで」と囁いた。
「……そんな、ん、煽られたら……やばいよ、止まれなくなりそう」
 諌める言葉は聞かず、糸井は糸川の舌を吸い、腰を浮かせて下腹同士を擦り付ける。潤いを残して嵩を失った性器が、じんわりとまた芯を持ち始めるのが互いにわかる。
「止まらなくていい……もっと俺でよくなって」
 どこか切実な声が、糸川の熱を自身の肌へ呼んだ。
 少しの違和感を、このとき糸川は覚えたかもしれなかった。泣きそうな心細さを糸井の声が滲ませていることに。
 けれど遠距離恋愛中であるという今の状況が、寂しかったのだろうという単純な理由付けで小さな気付きを攫って肚に落としてしまう。
 寂しさを埋めてやらねばと、ただ糸川は恋人を愛しく思った。
「好きだよ、糸井くん」
 大切な言葉を、糸井の耳元に繰り返し落とす。
 その日の糸井は、自身の限界を迎えてそのまま眠りに落ちるまで、糸川を求め続けた。

<END>