アネモネ -side S- 01


 金曜の残業時間。パソコンをシャットダウンして机上を片付けて、鞄を用意したところで糸川は隣の島の黛に声をかけた。
「上がれる?」
 振り向いた黛もちょうどビジネスリュックのファスナーを閉めたところで、問いにこくんと頷く。
「うん。帰ろか」
「っし。じゃあ、お疲れ様ー」
 オフィス内にまばらに残る社員に声をかけながら、黛と連れ立って廊下に出ていく糸川の姿は、ここ最近のお決まりの光景となっていた。
 先日、元恋人からの強姦未遂に遭った黛を糸川が偶然助ける形になって以来、平日は糸川が黛の部屋まで送り届け、週末は糸川の部屋に泊める生活が続いている。
 事件については警察にも相談していて、相手の顔や氏名も把握した上で黛の自宅周辺のパトロールを頻繁に行ってくれている。
 一度、当該男性と見られる男が付近をうろついているところに声をかけたという報告があった。知り合いを待っている、と話した男に警察は付きまといなどはやめるよう警告してくれたそうで、それ以降は目撃の報告は来ていない。
 警察沙汰になったことに怯んで諦めてくれたならいいが、黛のそうした対応へ逆上する可能性も否定できない。念のため、しばらくの間はなるべく黛が一人になることがないよう、糸川が付き添うことにした。
 一度関わった相手に危害が及ぶようなことがあっては後味が悪いし、黛の住んでいる社宅は糸川の住まいまでの途中に位置していてさほど手間にもならないので、ほとんど自分の安心のために糸川は黛の傍にいる。
 途中のコンビニで夕食と酒を調達して、糸川の部屋へ向かう。もうそんな週末も何度目かになって、黛は荷物で両手がふさがった糸川に代わって、糸川の部屋の鍵を開けた。
「ほんま、毎週ありがとなぁ」
「いいよ、僕もきみが傍にいてくれた方が精神的に助かるし」
 そんなことを言う糸川に、ドアを閉めながら黛は苦笑する。
「知らんとこで俺がストーカー殺人に遭うたら夢見が悪いて言うてたな。縁起でもない心配性やな」
「だって。事情を知ってる僕が近くにいたのに、何もできずにきみが被害に遭ったなんてことになったらさ。化けて出られても困るしさ」
「出ぇへんわ! 恨む筋合いちゃうやろ。感謝してるって」
 慣れた様子でリビングに行き、黛は自分の荷物をソファの横に置いてやや俯いた。
「……実際のとこ、怖かったし。ほんまありがとう。奥さんにはめっちゃ申し訳ない」
 黛はたぶん糸井と比べても五センチほどは小柄で、俯いてしまうと隣に立つ糸川からは表情が完全に見えなくなってしまう。けれど声の弱さに心細かった本心が浮いて、軽口の多い黛が心底感謝してくれていると知れる。
 さぞ怖かったことだろう。暴力を受けることも、それがスイッチで離人症状が出て抵抗できなくなってしまうことも。
 どうして自分はいつもそんな目に遭ってしまうのだろうかと、黛自身も謎だと言っていた。糸川にも恋人に手を上げる心理は理解できない。糸井を殴ったりする自分など想像もつかない。
 しかし世の中には、他者を大事にできない人種というのがいるようなのだ。その人種にばかり当たる黛は男運が悪いとしか言いようがない。
 だが運が悪いからといって黛が虐げられていい理由にはならない。黛に幸いをもたらしてくれる相手が現れることを祈るばかりだ。
 ぽん、と励ますように肩を叩くと、黛は顔を上げ、眉を下げて笑った。
「明日は奥さんがこっち来はるんやろ?」
 気を取り直し、ソファに座って買い込んできた夕食を袋から取り出す。テーブルに二人分の食事が並び、糸川も黛の隣に座った。
「あぁ、そうそう。明日は朝早くて悪いんだけど、九時前には黛くん送ってくから。その足で駅に迎えに行くんだ」
「夜道やないんやから、わざわざ送ってくれんでも大丈夫やで」
「そうやって油断してて何かあったら嫌なんだってば」
 軽率を諌めながらも、糸井の話題に近くなると糸川の表情がやわらかく緩むのに黛は気づく。
 こうして一緒に過ごすようになって、黛は糸川から、糸井の話を頻繁に聞いている。糸川が特に進んで話すわけではないが、尋ねればだいたいの質問には答えてくれる。
 糸井のことを話すときの糸川の表情は、会社では見ることがないほど、いつもひどく優しい。愛しさがにじみ出すような眼差しで、糸井を全肯定して語る。聞いているこちらが照れてしまうほど、好きで好きで仕方ないんだろうというのが伝わってくる。
 これだけ当てられているので、黛は糸川を好きになることなど選択肢としても挙がらないのだが、もしもこんなに深く愛されたらどんな感じなのだろうと、糸井のことが羨ましくはある。
 いや、羨ましいというよりは、憧れだろうか。望んでも一生手の届きそうにない、夢みたいなもの。
「……明日、奥さんに会ってみたいんやけど」
 ぼんやりと、前々から思っていたことが口をついた。
「え?」
「あ、いや、単純な好奇心もあんのやけど。こうやって泊めてもらってることとか……世話になってる事情話して、了解もらった方がええんちゃうかと思って」
 恋人のいない間に黙って上がり込んでいる疚しさはあって、黛は糸井に事情をきちんと説明しておきたいと思っていた。けれど提案を受けた糸川はぎゅっと眉を寄せる。
「……僕はこのこと、彼に話す気はないんだ」
 恋人へは何の隠し事もしない主義なのかと思っていた糸川は、意外なことを言う。
「まあ、説明しておいた方が僕らは気兼ねなく過ごせるようになって楽になるかもしれないけど。……彼にしてみたら、説明されたところで、僕が別の人と一緒に過ごしてることに変わりはないだろ。僕は絶対に浮気はしないけど、それを信じてくれてたとしてもいい気はしない、きっと。無駄な不安を持たせるくらいなら、この一時的な対応のことをわざわざ知らせることもないと思ってる」
 そして眉間の皺を解き、ふわ、と笑う。
「我慢できてしまう子なんだ。不安も悲しいことも全部自分の中にしまってしまえる子だから、余計な心配の種は与えたくない。大阪での人間関係も、彼には一切知らせないつもりでいる。だからごめんね、きみを糸井くんには会わせないよ」
 少し申し訳なさそうに、けれどはっきりと言いきった糸川に、離れて暮らす恋人の心をも守るという強い意思を黛は見た。
「……愛やなぁ」
 からかうではなく、感嘆の声が口をつく。照れて、糸川は頬を指先で掻いた。
「ごめん、素面でのろけて。今までこういう話をできる友人っていなかったもんだからさ」
「いやいやええよぉ。ええもん見せてもろてるわ俺、特等席で。会社ではピシーってしてる糸川くんが休みの日は昼までゴロゴロしてるとか、そのくせ奥さん来るときだけ早起きがんばれちゃうとか。微笑ましくてしゃあないで」
 笑いながら買ってきたビールの缶を二つ開け、一つを糸川に渡す。
「会わんくてもええからさぁ、写真とか見せてや、奥さんの。かわいい写真いっぱい撮ってるんやろ?」
「えぇ、写真? ……あるよ、かわいいのいっぱい」
「まじか! ……かわいいって、アレとかやないよな。ハメ撮りとか尺八顔とか」
 友人認定されて調子に乗った黛が砕けた瞬間、糸川の視線が凍る。
「ない」
「目! 冷た!」
「あったとして、見せるわけがない」
「冗談やん! 怒らんでやー。友達同士のありがちな猥談やん」
「知らん。寄るな。僕の糸井くんを性的な目で見るな」
「見いひん! 見いひんて! ごめんて!」
 突然下ネタを織り混ぜてきた黛に目を据わらせて背を向けた糸川だったが、必死で謝る黛に特選糸井ギャラリーを開示し、黛がもういいと砂を吐いて音を上げるまで、これでもかとのろけ倒して夜を明かしたのだった。