指先に憧れ 02


「あっ」
 声を上げて、隣を歩いていた糸井がよろけたのを、糸川が咄嗟に支える。新幹線の乗り場へ向かう途中の上り階段で、しかもこんな人の多いところで転んでは大変だ。
「大丈夫?」
「す、すみません。あーびっくりした。階段踏み外しかけた」
「気をつけて、こんなとこから落ちたら大惨事だよ」
「ですよね。あぁ、心臓ばくばく言ってる」
 はあ、と深呼吸をした糸井は、左手を胸に当てて撫で下ろしつつ、右手は自分の腰をさすった。
 転びかけたけれどどこも打ってはいないはずなので、その腰が痛いなら打ち身ではない。そしてその痛みに、糸川はしっかりと心当たりがある。

 清く健全な夜を明かした翌朝――つまり今朝、糸川が目を覚ますと、先に起きていた糸井は上から糸川の寝顔を覗き込んでいた。
 起きたら目の前に糸井の顔がある。
 寝起きの全く回らない頭で、それでも視覚から供給される幸福感をぼんやりと堪能していたら、その顔が近づいてきて、ちゅっとキスをされた。軽い接触が、何度も繰り返される。
 やわらかくて少し乾いたくちびるの感触に、ぼけた脳みそのピントが徐々に合ってくる。覚醒していくにつれ、にわかにもどかしさが湧いて、もっと深い接合を求めてつい腕が伸びた。
「ふふ。起きた?」
 後ろ首を抱き寄せられ、それに素直に従いながら、糸井が笑う。
「ん、起きた」
 ちゅう、と下くちびるを吸って開いたその隙間から内側を窺うと、互いに求めて伸ばした舌が触れ合って、絡み合う。そのタイミングの一致に熱量の等しさも感じられるのが嬉しい。
「雨、上がってるね。体調はもう大丈夫?」
 気遣う素振りの問いはつまり同意を得るための方便で、そのことはたぶん糸井にもバレていて、頷く頬にほんのりと朱が差す。
「うん、大丈夫です」
 応える声も少しの緊張と期待を孕んでわずかに固くなった。そこだけはいつまで経っても変わらない、糸井の世慣れなさを愛しく思う。
「こっち。乗って」
 糸井の腕を引き、跨がらせるように上へ呼ぶと、糸井がベッドに両手をついて突っ張るので、その手は糸川の肩に置かせた。
「……重くない?」
「全然」
 下敷きにしている糸川に荷重をかけまいと、なんとか体を浮かせようとしている糸井の体をぎゅうっと隙間なく抱き締める。全然重くないわけでは実はないが、糸井の存在の重みだと思えばそれすら嬉しい。
 胸が重なって、糸井の鼓動が早まっているのが伝わる。自分の心拍も同じだと自覚したら、急に昨夜からの自粛が耐えがたいものになった。
「はい、バンザイ」
 糸井のTシャツの裾を掴んで引き上げると、糸井は素直に両腕を上げる。Tシャツが引き抜かれると、銀色のチェーンに通された指輪が白い肌の上に揺れた。
「糸川さんも、はい」
 笑いながら、糸井も糸川のTシャツを引き抜いてくる。互いの服を脱がせ合い、ポイポイと順に放った床には二人分の部屋着が無造作に積み上がった。
 糸川は、基本的には全裸で抱き合うのが好きだ。着衣のまま勢いでというのもたまにするには興奮するが、肌を密着させてじんわりと体温を感じられるのがいい。
 特に今は糸井とは離れて暮らしているから、こういう機会には時間をかけて傍にある熱を確かめたい。その熱が少しずつ上がって、汗が浮いて、しっとり滑りやすくなってくるのもまたたまらない。
 最初は少し緊張の見える糸井の表情が徐々に緩んで、幸せそうに笑んだり、心地良さそうに蕩けたり、やがて切迫してしかめたり。そんな変化をひとつも見逃したくなくて、糸川は糸井に丁寧に触れる。
 糸井もまた、糸川の手に素肌を触られるのが好きらしい。背中や首をさらさらと撫で回すと、安心しきった猫みたいに目を細めてすり寄ってくる。それがたまらなくかわいい。
 でも、ただ優しく可愛がってばかりもいられないのだ。
「……あ、ぅ、ン……」
 意図をもって糸井の胸を撫で、指に引っ掛かる尖りを捏ねると、その小さな突起は充血して固い粒になる。その粒の側面に歯を当てるようにして先端を舌で押し潰すと、糸井は色を帯びた熱い息を吐いた。
「あ、そこ……」
「……ん、きもちい?」
「うん……きもちい」
「糸井くん、ここ吸われるの好きだよね」
「ん、すき……もっと吸って」
「ふふ。かわいい」
 要望通りくちびると舌で捏ねながら吸い上げると、糸井は甘い声で鳴いて背を反らす。その拍子に固く反り返った性器が糸川のそれと触れ合って、糸川は二本の屹立をひとまとめにして握った。
「っあ……!」
「動いて、糸井くん。擦って」
「う、ん……」
 言われるまま、糸井はぎこちなく腰を動かし始める。胸を吸われたまま動くのは難しいようで、糸川は浮かせていた頭を枕に落とした。
(うわ、壮観)
 下から見上げた糸井は、糸川の体の両脇に手をついて体を支え、無心に腰を使い始めた。虚ろに開いた瞳は潤んでいて、半開きの口から漏れる呼吸は不規則で、上気した頬はなんとも艶かしい。
 糸川は二人分の性器を握った両手の力を加減しながら、達しそうで達してしまわない程度に制御する。鈴口を親指で刺激したり、離したり。それを繰り返すうち、両手の中はどちらのものともわからない先走りでとろとろに濡れてくる。
「糸川さ……、も、いきたい……」
 懇願するように、糸井が弱音を吐く。自身もかなり呼吸を早めながら、糸川は意地悪く笑った。
「だめ。まだがんばって」
 そして濡れた右手を離すと、奥へ伸ばして糸井の背後にひたりと回す。
「あっ、あ!」
 中指の先を、つぷりと差し入れる。探さずとも覚えた場所を寸分たがわず刺激すると、突っ張っていた肘が折れて糸川の上に崩れかかってきた。
「やぁ、そこ……」
「嫌じゃないでしょ? もっと動いてごらん。自分でいいとこ擦ってみて」
「ん、っも……意地悪」
 恨みがましげな目で糸川を一睨みして、糸井はよたよたと体を起こし、また腰を揺らし始める。けれど、揺れに合わせて前は擦れるし後ろは指が出入りするしで、もう膝に力の入らない糸井は早々に音を上げた。
「やっぱむり……糸川さん、いれて」
「んー、仕方ないな」
 実は自分も我慢の限界を迎えていたくせに、それは棚に上げて糸川はベッドサイドのチェストからゴムとローションを取り出した。
 封を切り、先端からくるくると下ろして薄い膜を被せる。そしてその先端からローションを垂らして、砲身全体を潤していく。
 その工程を、無意識なのか、糸井は恥じ入る様子もなく食い入るように見つめていた。
「……腰落として」
 先端を入り口に押し当てて、糸川は指示をする。それに従ってそろそろと腰を落とす糸井の腰を、強く掴んで引き下げる。
「ん、く……」
 自分のペースで進めさせてもらえなかった糸井が、急な圧迫を受けて苦しげに奥歯を食いしばる。後孔は狭く、少しの余裕もない。
 でも、ここは糸川を覚えているはずなのだ。何度も通った隘路は、糸川を迎え入れる術を知っている。
 中ほどまでが入った状態で、糸川は肘を突いて上体を起こし、糸井の後ろ首を引き寄せた。強ばって凝った体をあやすようなキス。繰り返すうち、糸川を締め付ける襞も緩やかにほどけてくる。
「……んぅ……」
 小さく呻いて、糸井がやっと糸川を全て飲み込んだ。とたん、強く包んで絞り上げてくるような複雑な内壁の蠕動に襲われる。
 体内に収めた糸川をいたぶるように苛むときの糸井の体がどれだけ凶悪か、たぶん当の本人は少しも自覚していない。いつも少し気を抜いたら一瞬で全部持っていかれそうなほどのその体が、糸川の上で揺らめき始めた。
「あ……ぁ、やば、いぃ……」
 膝を立ててあられもなく開脚した糸井が、ゆっくりと腰を上下する。やばいのはこっちだと、糸川は奥歯を噛んで腹に力を込めた。
「そこがいいんだ?」
 腰を浮かせて浅いところを繰り返し摩擦する糸井の動きに合わせて、下から緩く突き上げる。意図したところよりも深い位置まで楔が食い込んで、糸井はビクッと体を震わせた。
「あ、だめ、動かないで」
「ん、痛い?」
「ちが、う……ン、おく、されたらすぐ……あ、」
 困惑の声を上げて、糸井が糸川の肌に爪を立てる。痛いのでないならばと、制止を聞かずに糸川が突き上げる動きをゆるゆると繰り返すと、その上でぎゅっと目を瞑った糸井が硬直した。
「い、く……」
 糸川の腹に、白濁が吐出され。それと同時に内壁のきつい締め付けに遭い、糸川も糸井の中に欲を吐き出した。
 荒い息で、崩れるように上体を倒した糸井がキスを求める。甘やかすように、その舌を舐る。
 さて、このキスを解いたら、息が整うまで抱き締めて、シャワーを浴びて、昼食にでも出掛けよう。病み上がりの彼に無理はさせられない。
 と、糸川は考えていたのだけれど。
 そのキスの合間に、糸井が囁いた。
「糸川さん、――もっと」

 というわけで、その後第二第三ラウンドが催され、能動的に動いてくれた糸井の腰に幾ばくかのダメージが生じたらしい。
 決してそのダメージの責任を糸井一人に押し付けようというのではない。決して。
 ただ、僕だけのせいじゃないよね、と責任の一端を負わせようとしていることへの若干の後ろめたさはある。
「……何ですか?」
 隣を歩く糸井に睨まれ、緩んでいた口許を引き締めた、というのを意識して初めて自分の口許が緩んでいたのを自覚した。まずいまずい、相当デレデレした顔をしていたのではなかろうか。
「……いえ、べつに」
「何考えてたの」
 怪訝というより既に糸井の顔は怒っていて、思考が読まれているのを察して糸川は観念した。
「……昼間の糸井くん思い出してました」
 正直に白状すると、糸井は心底嫌そうに顔をしかめたあと、耳を赤くしてそっぽを向き、小さく「ばか」と呟いた。