指先に憧れ 03


 発車の時刻が近づくまで改札の近くで糸川と過ごしたあと、糸井は東京へ帰っていった。
 いつも糸井が帰ってしまった後の家路は寂しくて仕方がないのだけど、今日はちょっと気分がいい。
(糸井くんの「ばか」、かわいかったなぁ)
 あんな口を利いたのも初めてだった気がするし、何より直前の、あの表情がよかった。本当に嫌そうな、侮蔑のこもった、害虫でも見るような。
 その視線に、正直ちょっと、何か自分の中の新しい扉が開いたような気がした。
 それはさておき、以前までの糸井なら、糸川に向かってあんな顔は決して見せなかっただろう。苦笑いでかわすか、せいぜい真顔になる程度で。
 それが今日は、遠慮のない態度でストレートに糸川を罵倒して見せた。それは糸井との関係上、大きな進歩ではなかろうか。
 こんなことを言ったら、こんな表情を見せたら、糸川の気持ちが離れてしまうんじゃないか。そんな甚だ余計な心配を、糸井がしなくて済むようになったのだとしたら。
(……あのしかめっ面が、どんな笑顔より嬉しいな)
 糸川はそんなふうに思う。
 二週間後は、糸井の三十歳の誕生日だ。
 一年前はその日を知ることもなく、後日に知らされてからもろくに祝わせてもらえなかった。あの頃の糸井は、この関係が長く続くものだとはまるで信じていなかった。
 それから一年、やっと糸井が心を開いてくれたと感じられるところまで来た。今は遠距離ではあるけれど、二人の仲は順調そのものだ。
 さあ、今年の彼の誕生日はどうやって祝おうか。三十歳の節目の年、できれば印象に残る日にしたい。
 高級志向ではないし、ハイブランドにも興味はないようなので、やっぱり物より体験だろうか。美味しいものを食べるとか、夜景のきれいなホテルに泊まるとか。
(……ベタすぎるかな? でもあの糸井くんだから、そういうのも初めてで喜んでくれる気もするんだよなぁ)
 糸井のこととなると頭を悩ませるのも楽しく、糸川はのんびりと夜道を歩く。
 人気のない裏道を自宅への近道として歩いていた、そのときだった。
「……?」
 裏道からさらに路地を入った暗がりから、何か言い争うような声が聞こえたのだ。
「やめぇって……離せや」
「やかましな、おとなしせぇよ」
「マジで……、いやや。ほんまにいやや。やめてくれ」
「うっさいな、ちょっと黙らせぇコイツ」
 男が三人? 一人が二人に絡まれている?
 声から状況を推察して、厄介ごとには巻き込まれまいと踵を返しかけた糸川だったが。
 平手打ちのような殴打音と呻き声、そして何かがドスンとぶつかったような重い音が聞こえて足を止めた。
(……まずくないか、これ)
 急に静かになった路地裏からは、人が立ち去る気配はなく、小さな呻き声だけが漏れ聞こえ続けている。
 厄介ごとは御免だ。さほど正義感が強い方でもない。危険の可能性は避けて通りたい。
 だけど、この状況で見て見ぬふりをして帰宅して、翌朝のニュースでこの辺に規制線が張られているのが映ったりしたら、いくらなんでも後味が悪すぎるではないか。
 うぅ、と迷いに迷って諦めて、糸川は路地裏に向けて声を張った。
「警察呼んだぞー!」
 すると、暗がりで二つの影が瞬時に動き、糸川とは反対の方向へ二人分の足音がバタバタと走り去っていった。
 音が消えていって、糸川は緊張して詰めていた息をつく。凶器を持った男二人がこちらに向かって襲いかかってきたりしたらさすがにたまらない。逃げてくれてよかった。
 それで絡まれていた人は無事なのかと、糸川は携帯のライトをつけて恐る恐る路地裏に踏み込んだ。照らした先に、壁とエアコン室外機に寄りかかるようにして倒れている人がいる。
「大丈夫ですか、――!?」
 近づいて声をかけて、その顔を見て、糸川は息を飲んだ。
「黛くん!!」
 見知った顔が頬を腫らして、虚ろに目を半開きにしてぐったりしている。慌てて糸川は携帯を室外機の上に置き、黛を抱き起こした。
「黛くん、黛くん。しっかりしろ」
 抑えた声で呼び掛けながら、頭を揺らさないように腫れていない方の頬をひたひたと叩く。他に目立った外傷はなさそうだが、半開きの目は糸川を映しているようで反応はない。
「黛くん。黛くん」
 しばらく呼び掛け続けていると、はっと、半開きだったその目が見開いた。そして一度強く瞬きをして、ぐったりと糸川に預けていた体に力が戻る。
「――糸川くん。なんや。どないしたんこんなとこで」
 何事もなかったように黛の方が驚いた顔をするので、心配していた糸川に訪れた安堵の一部が怒りに変換された。
「なんや、じゃないよ。何があったんだよ。頭ぶつけたりしたんじゃないのか。さっき脳震盪起こしてただろう」
 強く問う糸川を、黛はきょとんとした顔で見つめる。
「え……? ……あぁ、大丈夫や。そういうんとちゃうねん、脳震盪とかやない」
「そうなの? なんだか意識が朦朧としてたみたいだったから」
「うん。もう大丈夫や」
 首を左右に曲げて、黛はどっこいしょと立ち上がった。そして辺りをキョロキョロと見回す。
「つーか、あいつらどこ行ったんや」
「聞こえなかった? 僕が大声で警察呼んだって言ったらすぐに逃げてったよ」
「まじかぁ。助かったわ、ありがとー」
「なんでそんなに呑気なの。知り合いだったの? 何があったの?」
 軽さではぐらかそうとする黛に、糸川は詰問する。
 危ないところを糸川に助けられた自覚はあるのか、少し迷って、黛は観念したように苦く笑った。
「……一人は俺の元カレや。もう一人はよう知らん。二人で……俺のことレイプしようとしてたみたいやな」
「レイプ……?」
 平気そうにしているようで、よく見れば自分の左腕を掴んだ黛の右手は震えている。きっと怖かったのだ。平気なわけがない。
「……あかんねん俺、そういうの。なんでか、つき合うやつつき合うやつ、みんな俺のこと殴るねん。殴りたくなる顔してるんかな俺が……ようわからんけど。最初は今度こそ大丈夫やろって思うのに、なんでかみんな、殴って、セックスする」
 そうしないと語れないのか、辛い話をする黛の口許は笑っている。
「やから俺、正直セックス怖いんよ。したないし、やってもうまくできひん。それがまた相手イライラさせてもうて……余計殴られる。そういうん繰り返してたら、殴られるとき、頭ぼーっとするようになってん」
 どう説明したらいいかなと、笑った口許が少し困る。
「外から自分が犯されるのをただ見てる感じやな。痛くないし、何も感じひん。体も動かん。終わるの待ってるだけや。けど、おとなしい間の俺の体、めっちゃええらしいねん。元カレはそれ知ってるから、さっきも一発殴って、おとなしくしてからやろうとしてたみたいやわ。そうなったら俺、逃げられへんしな」
 困った口許が、少しひきつる。
「……怖いけど、どうにもできひん。別れる言うてもこないしてあいつは来るし。俺にはどうしようもない」
 力なく、瞼が涙を落とす。
「黛くん……」
 宥めようと近づいたら、その分だけ黛は後ずさって距離をとった。自分のことも怖いのだと理解して、糸川はそれ以上近づくのを自重する。
 黛の話を、まったく理解できずに糸川は聞いていた。
 『元カレ』と呼ぶのだから、交際の事実はあったのだろう。先ほどのレイプ犯の一人は、かつて黛の恋人だったわけだ。
 恋人を殴る? 犯す? どうしてそんなことができるのか、理解の範囲を超えている。意味がわからない。愛する相手を痛め付ける理由がどこにあるのか。
 恐怖に震えて泣いている黛を見れば怒りが湧くが、しかし部外者の自分にできることは限られている。
「……今夜は僕の部屋にいなよ」
 そっとしておきたいのは山々だけれど放っておくこともできず、迷って糸川は、黛を自室に誘った。
「ここから近いし、当然だけど何もしないし。元カレ、きみの家の場所知ってるんじゃないの。一人で帰るのは危ないよ」
 誘われた黛の方は、ひどく困惑している。
「いや、それは……あかんやろ。ありがたいけど、そんなん、奥さんに申し訳が立たへんわ」
「大丈夫だよ、別にわざわざ話すようなことでもないし、知ったところで人助けを勘繰るような人じゃない。それより、さすがにさっきの今できみを一人にはできないだろ」
「けど……」
「行くよ」
 躊躇う黛の前を、さっさと糸川は歩き出した。それでもついて来ないなら無理に連れて行くつもりはなかったが、ずいぶん逡巡して、少し離れて糸川の後をついて歩き始めた。
 間もなく着いた糸川の部屋に、黛は遠慮がちに上がった。風呂を貸し、いつもは糸井が着る部屋着を貸そうかと思ったけれど何かまずい気もして、自分のTシャツと何年も穿いていないジャージを貸す。
 風呂上がり、半袖のTシャツを着た黛の腕には、いくつか黒ずんだ痣が浮かんでいた。もしかしたら、見えている腕以外にも暴行を受けた痕があるのかもしれない。最近の黛がいつもきっちり長袖を着込んで、マスクもつけたままだったのを思い出す。
 いつからそんな目に遭ってきたのだろう。
 訊きたいことは山ほどあったけれど、迂闊に訊くのも憚られる。就寝の電気を消して、リビングのソファーで丸くなった黛に、糸川は寝室の扉を開けながら話しかけた。
「……明日にでも警察に行こう。今は男性同士の性被害やストーカー事案も話を聞いてもらえるそうだから。我慢してちゃだめだ」
 説くと、黛は小さく鼻をすする。
「うん……そうする。ごめんな、面倒かけて」
 心細い涙声が、闇に溶ける。そして、長く深いため息をついた。
「……なんでかなぁ。俺は好きな人を大事にしたいし、同じように大事にされたいだけやねんけどなぁ……」
 思うようにいかない辛さともどかしさが、やるせなく虚空に吐き出される。その声に返す言葉もなく、糸川はそっと寝室に入って扉を閉めた。
 優しいセックスを知らない黛に、かつての糸井の姿が重なった気がした。


<END>