やたら視線を感じる。
それに気づいて糸川が顔を上げると、席の近くに立っていた同僚の
「……何か用?」
戸惑いながら問うと、見ていることを悟られたことに気づいていなかった黛は、はっと目をしばたいた後、少々ばつが悪そうに後ろ頭を掻く。
「いやー、なんもないよ」
そう言う黛の顔は下半分がマスクに覆われていて、声色で愛想笑いを浮かべていそうなのはわかるのだが、その表情はよく読み取れない。
「え、何もなくないでしょ。気になるし」
どこかに汚れでもついているだろうかと、肘まで袖を捲った腕を持ち上げてみる。六月も半ばを過ぎて、エアコンは効いているがオフィス内は蒸し暑い。
「や……ほんま大したことやないんやけどさ」
そう言って黛は、糸川の耳に顔を寄せた。その彼は、長袖のワイシャツの袖ボタンも襟ボタンも、きっちりとしめている。
「もしかして明日とか、奥さんと会ったりする?」
耳元で問われて、糸川はどうしてそれがわかったのかと驚いて目を瞠った。
黛は糸川の恋人である糸井と面識がないが、会話の中で糸井のことを『奥さん』と呼ぶ。その糸井は、明日の土曜に大阪に来ることになっている。
「……なんで」
反問に、黛の目が笑んで細まる。そして、糸川の手を指差した。
「爪。めっちゃきれいにしてる」
指摘された糸川の爪は、やや深爪気味に切り揃えられ、尖りもなくきれいにやすりがかけられている。もちろんそれは、糸井の体のデリケートな箇所に触れることを考慮しての気遣いだ。
けれどまさかそんなことで逢瀬の予定を言い当てられるとは思ってもいなくて、やたら気恥ずかしくなって糸川はキーボードの上で両手を握り込んだ。
「……わー、糸川くんが照れてる」
「うるさいな」
「優しいなぁ。めっちゃいい旦那さんやん。奥さん羨ましいわぁ」
「もう、仕事しなさいよ」
「糸川くんこそ仕事しいや。グーでパソコン打たれへんで」
楽しそうにウェーブヘアを揺らしながら笑って、黛は自席に戻っていく。
大阪でいわゆるイジリを受けることにはだいぶ慣れてきた糸川だったが、黛から糸井絡みでイジられることには、未だ慣れることができないでいた。
「糸川さんの手、きれいですよね」
会社でそんなやり取りがあったことは知る由もないはずの糸井が、ぽつりとそんなことを言った。
土曜の夜、二人で一緒に浸かった浴槽で、糸川の胸に背中を預けて座った糸井は、糸川の手をしげしげと見つめてその指の股に自分の指を絡めたりしている。
「そう? きれい?」
「うん。そんなに細い指ってわけじゃないのに……あんまり関節が出っぱってないせいかな、すごい指が細くて長く見える。あと、爪の形がきれい」
「まあ、あんまり男らしい手って感じじゃないかもねぇ。力仕事も縁がないし」
「ふふ、確かに建設作業員歴十年って言われたらダウトって言う。俺はすごい好きだけどなぁ」
目の前で糸井の頭が笑いに揺れて、濡れ髪が雫を落とした。
じわ、と胃の奥の方に熱が滲んで、ほとんど無意識に糸川は目の前の細いうなじにくちびるを寄せていた。
「ひぇっ」
糸井のかわいい反応。
いかんいかん、今日の糸井に他意を持って触れてはいけないのだ、と糸川は自制する。
今日の大阪はあいにくの空模様で、午後に向かって雨が強くなる予報だった。要するに気圧がどんどん低下していっているような状況で、新幹線の改札を抜けてきた糸井は、精一杯の笑顔が青白かった。
糸井は気圧の変化に弱い。特に強い低気圧が近づいてくる日などは、てきめんに体調を崩す。頭痛がしたり、吐き気がしたりするのだそうだ。気圧など気にしたこともない糸川にしてみれば、その繊細さに驚くばかりでまるで知覚できない。
自分にはわかってあげられない不調だからこそ、糸川はせめて気遣いだけは充分であるよう心がけている。雨の日にわざわざ出歩くこともないのだし、食事はデリバリーでもインスタントでもまったく問題ない。しんどい時には休むのが一番だ。
そんなこんなで今日の日中は糸井はベッドの中にいて、糸川はその隣で本を読んだりして過ごしていた。一人の週末と同じ過ごし方ではあるのに、隣に糸井がいるだけで、なんだかすごく充実した時間に感じられる。不思議なものだ。
日も落ちて雨脚が弱まった頃、だいぶ血の気が戻った顔色で起き上がった糸井を、糸川は風呂に誘った。決して下心があったわけではなく、今日はのんびり、糸井の髪を洗ってあげたり一緒にゆっくり湯船に浸かったりしたかったのだ。
前回糸川が糸井の部屋に泊まったとき、見つけてしまったアダルトグッズの数々の出所が三島だと知って、自分でも驚くほど簡単に理性が飛んだ。
べつにそういうものを糸井が所持すること自体は何ら問題がないと思っている。健康な成人男性で恋人が遠方に住んでいるとなれば、そういうツールで自身を慰めることは普通にあることだと思うし、よその実体を求めるよりよっぽどいい。むしろ想像するだけでもとてもかわいい。どんな風にやるのか見せてほしい。
だけどその物品たちに三島の気配が残っているとなったら話は違う。そんなもので糸井が性感を得ているなどということは断じて受け入れられないし、未だに後生大事に残していた糸井のことも許しがたかった。
その結果、糸川は糸井にひどい無体を働いた。
あの夜、糸井は何度『やめて』と訴えただろう。声を震わせて、息も絶え絶えに、必死で絞り出した哀願を糸川は全て無視した。
前にも同じように、加減もしないで糸井を抱き潰したことがある。付き合う前、まだセフレだった頃、三島との行為を想起してしまうから避けていた口淫を、うたた寝した隙にされてしまったとき。
あの事後にもずいぶん反省して二度としないと心に誓ったはずなのに、もう同じことを繰り返しているのだから進歩がない。無理強いして、後悔して、謝って、ただ赦されて。情けないことこの上ない。
三島が絡むと冷静でいられなくなる自分を、糸川も自覚している。その理由も、ちゃんとわかっている。
だけど、どうしようもないのだ。腹の底が煮えて、矢も盾もたまらない気持ちになるのだ。
そんな気持ちを、糸井に明かすことはできないけれど。
「……糸川さん?」
ふと呼ばれて我に返ると、振り向いた糸井が、眉を寄せて黙り込んだ糸川を不安そうに見ていた。
「なぁに」
取り繕うように浮かべた糸川の笑みの不自然さを、糸井は敏感に察して俯く。
「……あの、今日はすみませんでした。せっかく時間作ってもらったのに、俺のせいで無駄にしちゃって」
察知したマイナスの空気の原因を、糸井はすぐに自分と結びつけてしまう。まるでこの世に起こる悪いことの全てが自分のせいみたいに。
糸井の性格上、自分以外の何かや誰かのせいにするより、自分のせいということにしておいた方が却って気が楽なのだろう。自分の中に閉じ込めてひっそり消化してしまえば、周りとの軋轢を生まずに済む。糸井はそういう『穏便』を選んできた人だ。
だけどそれでは、僕の好きな人があまりに可哀想ではないか。
糸井が糸井自身に理不尽に傷つけられることを、どうしたら阻止できるだろうかと、糸川は普段から頭を悩ませている。
「はいダメ不正解、やり直し。僕はそんなこと思ってない」
わしゃわしゃと糸井の濡れ髪をかき混ぜて、糸川はぐいっと落ちた視線を上げさせた。
「さっきのは前回きみを抱き潰した僕の反省タイムでした。きみは何も悪くないし謝ってはいけませーん」
そしてびっくり顔の糸井のくちびるに、ちゅっとくちづける。
「……どう過ごそうが、一緒にいられる時間なのに。無駄にしたなんて言わないでよ」
すり、と親指で糸井の頬を撫でる。不安にこわばった表情がほどけて、ふんわりと綻ぶ。間近でその変化を見られるのが、嬉しくて、少しせつない。
安心させられる存在になれたこと自体は良いのだけど、それ以前に、糸井が不安になることが減ればいいのに。
そう思い続けているけれど、その性質は糸井の根幹に近いところに起因しているらしく、なかなか変化を望むのは難しいようだった。
「出ようか。髪乾かしてあげる」
糸井の手を取って引くと、糸井は嬉しそうに微笑む。
その笑顔が眩しくて、あんまり無闇にそのラブリースマイル振り撒かないでほしいな目が潰れるから、なんてことを思った。