ある朝糸井が出社すると、エレベーターで一緒になった部署の後輩女性である
「!? ちょっ、何!?」
驚いた糸井は、円谷と思いきり距離をとった。
そもそも糸井は、人との距離感を測るというのが苦手である。それが異性相手ともなれば尚更で、その上昨今はあらゆるハラスメントにも気を付けなければならない。
「あ、やっぱこの香り、糸井さんだ」
「え、臭う!?」
まさかスメハラとか言われるのかと、嗅がれた袖を糸井も嗅ぐが、鼻が慣れてしまっているのか自分ではよくわからない。
毎日入浴しているし服も洗濯しているし、喫煙はしないし歯磨き後のマウスウォッシュも欠かさないのに、これ以上どう気をつければ良いのだろう。
「あいや、クサイとかじゃなくってー」
少し考えるように首を捻った円谷を見て、後輩にニオイを指摘された上に気を遣わせてしまっていると、半分泣きそうになりながら糸井は同期の芦田に縋った。
「ちょ、芦田、芦田、ファブリーズ貸して」
「はあ!? なんで俺がファブリーズ常備してる前提なんだよ。持ってるけど」
「ほらぁ! 貸してってー早くー」
「違う違う、糸井さん、クサイとかじゃなくって! 聞いて!」
軽くパニックになっている糸井に、円谷はもう一度鼻を寄せる。
「……なんだろ、この香り。香水っぽくない……お花?」
首を傾げる円谷に、芦田が「あ~!」と納得の声を上げる。
「なるほど。今年もその時期が来たか。五月だもんなぁ」
「その時期?」
「フローラル糸井」
「……フローラル糸井」
「復唱しなくていいから円谷。バカ芦田、円谷の時を止めるんじゃないよ」
花の香りと聞いて、糸井も原因に心当たりがあってほっとした。
糸井が今日着ているシャツは、雨天だった昨日、糸井の部屋の中に干していたものだ。
「毎年この時期は、糸井の部屋ん中の植物が一気に開花するから、花の匂いが充満するんだってさ」
部屋干ししていた服に、その匂いが移ったということだろう。
部屋に呼んだことはないが事情は説明したことのある芦田がどこか得意気に話し、ふと糸井の髪に鼻を寄せる。
「そん中で寝起きしてりゃ、アタマもフローラルだわな」
「嗅ぐなって」
嫌そうに顔をしかめて芦田の頭を押し退ける糸井を、円谷はにこにこと眺めていた。
帰宅して、糸井はあらためて自室の匂いを嗅いでみる。毎年のことだが、確かに花の香りでいっぱいだ。
しかしこれも、慣れっこの糸井には何も問題ない毎年の風物詩ではあるが、糸川にとってはどうだろう。例えば、こんな花の匂いの充満した部屋で食事したくないと思う人もいるかもしれない。
(咲いてるやつだけでも外に出すか……)
夜中もさほど冷え込まないし、もう霜が降りる心配はない。ベランダに続く掃き出し窓を開け、糸井は開花した鉢を外へ運び出した。
明日は糸川がこの部屋に泊まりに来る。それまでにしっかり換気して、匂いを抜いておこう。
ふと見れば、春先から小さなオレンジの花を咲かせていた雪晃が、今年最後の蕾を咲かせている。糸川がくれたそのサボテンが開花したら見せる約束をしていたのに、糸川には携帯で写真を送ったきりで、実物を見せていなかった。
「明日、見てもらおうな」
子どもに語りかけるように笑って、ガラス扉のケースから取り出したカメラでパシャリと接写する。ついでにベランダへ移動させたスズランやミニバラ、ユリたちも。
手を掛ければ掛けるだけ美しい姿を見せてくれる植物は、昔から糸井の寂しい時間を慰めてくれていた。趣味の写真の被写体にもなってくれるそれらを、糸井はずっと大事にしている。
けれどこの冬から少し、考えていることがある。
まだ先のことではあるが、糸川が大阪出向を終えて、本当に一緒に暮らすことになったら。
生活感があるとは言いがたい糸川のきっちりとした住空間を思い出すと、そこにこの大量の植物たちはどうにもそぐわない。アクセント程度の観葉植物くらいなら良いかもしれないが、雑多な感じに花が咲き乱れる環境は、糸川の好みからは掛け離れていそうだ。
(……処分、考えないとなぁ)
実家に預けるという選択肢はなくなってしまったから、業者に引き取ってもらうか、誰かに譲渡するか。いずれにしても、残すのは一割か、せいぜい二割。
どれを残してどれを手放すか、を考えていたらだんだん寂しくなってきてしまった。
たぶん、糸川に相談すれば、全部残せばいいと言ってくれるのだろうと思う。でもそれは糸川の優しさであって、きっと本意ではない。糸井の趣味ごときで、生活基盤に対する無理や我慢はさせたくない。
それに、植物がなくなったって、糸川がいるなら糸井は寂しくないはずだ。
彼さえ傍にいてくれたら、他に望むものはない。
そう思ったとたん、糸川のいない部屋に一人でいるのが余計に寂しく感じられた。
寂しさは、不意に体の疼きを呼ぶ。
(うわ……やだな、明日には会えるのに)
惑いながらも、そっと下腹に這わせた指に触れるのは、ごまかしようのない熱。
二週間前に糸川に会いに行って以来、糸井は性的な行為から遠ざかっていた。
(……最悪、堪え性無さすぎだろ俺)
そう思いつつ、糸井の手はつい、ベッド下収納の中の普段は開けない箱を開けてしまう。
仕舞われているのは、いくつかのアダルトグッズ。いずれも以前三島が糸井との行為の最中に使って、もう要らないからと糸井に持ち帰らせたものだ。
卑猥な色と形のディルドを手に取ると、頭に靄がかかったみたいになった。これが目先の快楽を与えてくれることを、糸井はよく知っている。
窓を閉めてカーテンを閉めて、部屋の電気も落として。ズボンと下着を脱いで床に膝立ちになると、冷たく固い床の感触になんだか泣きたくなった。
柔らかいベッドの上で、糸川に触られたい。いっぱいキスしてもらいながら、体の深いところまで全部。
でもそれは、叶わない。
「ん……」
左手で胸を撫でて、乳首をつまむ。その刺激に、右手に包んだぺニスが膨張する。てのひらを上下させるその動きで放出の欲求は高まっていくのに、一方で内側の疼きが沸き上がって止まらなくなる。
もう、たぶん、後ろを触らないと満足に達することもできない。糸川に愛されて、そんなふうに体が変わってしまった。
「……ふ、ぅ……」
先走りに濡れた手にローションを取り、指先を後ろへ伸ばす。襞をくぐったその指でどこを突けばいいか、そんなことはわかっている。
でも、自分の指じゃなにか足りない。糸川だったら、その指の刺激だけでもイキそうになるのに。
床に額をつけて、目一杯腕を伸ばして奥を探っても、どうしても足りない。
その足りなさが切なくて、糸井は苦しく喘ぎながら、ディルドを床に突き立てて固定した。その上に跨がりながら、甲斐のない涙が瞼から溢れる。
「い、糸川さん……」
名を呼びながら、体温のない張型に体を沈める。食い込んでくる体積は、確かに糸井の内側を満たして刺激してくれるけれど。
「う……糸川、さ……」
早いピッチで浅いところを追い上げて、絶頂が近づくのを自覚するほどに虚しさが胸を暗く覆う。
「……あ、はっ……」
びくっと、全身が硬直した瞬間に白濁が右手を汚した。反射的に体が逃げて、ディルドが抜ける。
息を上げて、そのまま床に転がって、呆然と糸井は汚れた自分の右手とディルドが立ったままの床を眺めた。
涙が伝って、床を濡らす。
「……さみしい……」
誰にも聞かせられない声を落として、冷たい床の上で糸井は手足を縮めた。