窓際の憂鬱 -06-


「…どうして?」
 自分を拒む理由を問う声が、思いの外弱いことに春樹は驚いた。
 思えば今までも、気持ちはもちろん受け入れてはもらえていなかったけれど、まともに取り合われないだけにこうして引導を渡されたこともない。
 初めて小林からフラれたのだと、春樹は思い知った。
「それは、俺が教師でお前が俺の教え子だからだ」
 問われたことに、迷いのない声で小林が答える。きっと相手が生徒であればそれが誰であれ、同じ声で断るのだろうと春樹は思った。
「俺がもし、先生の教え子じゃなかったら? もうちょっと違う目で見てくれた?」
「…そういう、仮定の話に意味はないだろう。現にお前は俺の教え子で、教師と生徒としてしか知り合うこともなかった。俺はこれからも、お前を生徒としてしか見られないし見るつもりもないよ」
 きっぱりと、春樹の縋るどの希望の糸も切って捨てて、真摯に小林は春樹と向き合う。
「お前が何の無理もしないで幸せになれる恋愛が、もっとお前の近くにあるはずだよ。お前の相手は俺であるべきじゃない。もっと視野を広げてごらん」
 少し高い位置の瞳が自分を見つめるそれは、どこか同情的な、何かいたいけなものでも見るような眼差しで。
 ああ、これではだめだ、と春樹は望みを絶った。全然並べていない。いや、自分より10も大人の彼と肩を並べられないまでも、せめて他の生徒たちとは違う目で見てもらえるはずだと思っていたのに。
 思い上がりだった。
「…明日は授業に出なさい」
 優しい声は、少しも特別な空気を纏わない。
 窓辺を離れ、職員室へ向かう小林に、まだ問いたいことはいくらもあった。
 今も、どうしても萱島でなければダメなのか、自分ではダメなのか、生徒だからダメだと言うなら生徒でなくなるまで待てばどうなのか。
 けれど、その問いに意味はないと春樹にはなんとなく分かる。何を言っても、今の小林の固い決意を変えることはできないのだろうと。
 何も言えないまま、小林の姿が廊下から消えた。
 少しずつ、西日を受けた校舎が翳っていった。


 暮れ始めると一気に暗くなった外に出て、春樹が校門へ向けてとぼとぼと歩いていると、ちょうど向かいの職員玄関から出てくる長身の影が見えた。
 会いたくない人には、よくよく会いたくないタイミングで会うものだと思う。
 思い切り目が合ってしまったので、仕方なく春樹は会釈した。
「…さよーなら」
 無愛想に 「おう」 と返した萱島は、そのまま通り過ぎてくれるかと思えばなぜだか春樹の隣に並んでくる。
「なんだ、なんか元気なくねーか」
 時々厄介な萱島の敏さにため息をついて、こうなればこの男ととことん話をしてみるのもありかもしれないと、春樹は門扉の陰に寄った。
「あんたさぁ…なんであの人じゃダメだったの?」
「は?」
「…小林だよ」
 名前を出すと、萱島は露骨に表情を硬くする。
「…あいつ、俺とのことお前に何か言ったのか」
「何も。なーんにも、俺には話してくれない。俺なんかアウトオブ眼中なの」
「……」
「なんであんたが何とかしてやろうと思わなかったの? 守谷先生が来る前から、小林の気持ちには気づいてたんでしょ? 何も苦労して守谷先生落とさなくたって、手近に手ごろなのがいたんじゃん」
「お前、そんな言い方するな」
 がつんと、萱島は春樹の後頭部に拳をくれる。
「そーゆーもんじゃねえんだよ。あいつが――極端な話だけどよ、ガキに話すようなことでもないけど――セフレでも探してるっつーんだったら、それだけの関係、になってた可能性はなくもないかもしれねえけど」
 ためらいながらも春樹相手にならいいかと身も蓋もないことを言って、けれど言った傍から居心地が悪くなって口元を押さえながら、萱島は眉を顰める。
「あんな、なんか…本気以外の何物でもありませんってな思いつめた目で見られたらよ…俺だって鬼じゃねえんだから、手近で手ごろななんて考えで傍にいられるわけねえだろ」
 萱島でもそんな風に逡巡することがあるのかと、半分驚いたような顔でまじまじと見てしまった春樹を、むっとしたように萱島は睨み下ろす。
「お前だってわかるんじゃねえの。成田、だったか……あいつはお前を好きだったんだろ。でもお前はあいつに応えなかった。都合よく自分を想ってくれる相手と一緒にいりゃそれでいいのかっつったらそうじゃねえって、そういう判断だったんじゃないのか?」
「それは……」
 そうだけど、と春樹は口ごもる。
 春樹は萱島のことをずっと酷い男だと思っていたけれど、相手を思いやるあまりに結論をつきつけられずにいた自分と同じだったと言うのなら、もう責められない。
「だいたい俺が小林とくっついちまってたらお前はどーすんだよ。なんかお前言ってることめちゃくちゃだぞ。小林から何言われたんだ」
 自分ではダメならいっそ萱島が小林を幸せにしてやってはくれないだろうかと考えたことはまさに支離滅裂で、自分を見損なう思いで春樹は深くため息をついた。
「…フラれたんだよ」
「何て」
「教師と生徒だからダメだって」
「そりゃそう言うだろうよ、生徒に手ェ出すなんざ御法度だからな」
 当然だろう、とばかりにあっけなく返されて、頭に血を上せて春樹は萱島を睨み上げる。
「なんだよ、じゃあ俺は当然なるべくしてフラれたわけ? 何やっても 『生徒だから』 で却下なわけ? それで諦められないならどうすればいいんだよっ」
 珍しく激昂した春樹を萱島はきょとんと眺めて、呆れたように鼻から息を吹いた。
「…お前、そんな簡単なことで悩んでたのか」
「か、簡単ってっ」
「そんなもんお前、決まってんじゃねえか」
 その時萱島の背後で、職員玄関からパタパタと誰かが慌てたように駆け出してきた。
 それを一瞬振り返って、萱島がふわりと笑む。
「諦めなきゃいいんだよ」
 その一言と滅多に見られない萱島の笑顔に、春樹は突如開眼したように言葉を失った。
「なになに、珍しい組み合わせで何の話?」
 萱島の背中に追いついた岬が、興味津々で春樹の顔を覗き込んでくる。
 そうか、と、春樹は納得するしかなかった。
 萱島が諦めなかったから、今この笑顔は萱島の隣にあるのだ。