翌日、小林が三時間目に春樹のクラスの授業に行くと、春樹の席は空席だった。自分の授業だけボイコットしたのかと、室長に河瀬は休みかと確認すると、今日は朝から休んでいると言う。
よほど自分が春樹を傷つけたのだろうかと、深い後悔が小林の胸を塞いだ。
小林は、春樹のことを軽く見すぎていたのだ。直截的な言葉を一切使わなかった春樹も素直ではなかったが、今思えば他へ片想い中の小林に負担をかけないように考えた彼なりの精一杯のアピールだったのだろう告白に似た数々の言葉を、小林は一度も信用したこともまともに受け取ったこともなかった。
―― 一回寝れば俺があんたを手に入れた気になって満足すると思ってるんだろ。そんで後は俺と付き合ってるフリして、卒業までの間、求められたときだけ足開きゃ俺の気が済むと思ってんだ。期間限定で俺のこと騙すくらいわけないって。
絶望に曇った瞳で昨日春樹が言った、それはそのままずばり図星で、小林は春樹が自分に向けてくる好意を自分の憂さ晴らしに使おうとした。
一度やっておけば、春樹の欲求不満も好奇心もまあとりあえず満足するだろう。同時に自分のこの抱えきれない傷心も少しは晴れるかもしれない。その後春樹が関係の続行を望んだとしても長くて卒業まで、それまで意に染まない肉体関係が続いたってとりたてて小林にはデメリットもない。恋愛感情の対象ではない相手と寝ることに嫌悪を感じるほどの純潔は、もう持ち合わせてはいない。
だから、双方にとって悪い話ではないと、小林は春樹を誘ったのだ。
その誘いが、春樹に涙を流させるなどとは思いもよらずに。
――俺に、先生を傷つけさせるなよ
自虐的に憂さを晴らそうとした小林に、春樹は懇願するように言った。それだけは自分にさせないでくれと。
ようやく小林にも分かった。
春樹は本気だった。
本気で小林を好きで、小林を癒したかったのだ。
俺にしとこうよ、と、春樹は小林に何度も言った。窓枠の外に想い人が他の男へ想いを寄せる姿を見ては幾重にも胸に傷をためていく小林に、俺なら先生のこと傷つけたりしないよ、と。
小林の傷に触れない距離からずっと、呼びかけていた。
(全然…理解してやれなかったんだな…)
放課後のチャイムを聞きながら、いつもと同じ窓から差し込む西日に目を細める。
その先のふたつの窓は、カーテンとブラインドが閉じられている。そんな、見つめていたってどうにもならない日にも、少しでもその窓が開かないか、煙を吐き出すほんの一瞬でもいいからその姿が見えないかと、飽きもせずに小林はその部屋を眺め続けて。
その斜め後ろで、春樹は何を考えていたのだろう。
「……先生」
ぼんやりと外を眺めていると、不意に後ろから声がかかって小林は驚いて振り返る。
「か、わせ」
階段と廊下の境目に、制服姿の春樹が立っていた。
「ごめんね、物思いに耽ってるところ。毎度毎度、お邪魔します」
笑いながら、春樹は小林の横に並ぶ。小林を直視しない横顔は、西日を受けて眩しそうだった。
「お前、今日授業は?」
「うん……普通に学校来るつもりで家は出たんだけどね。…なんか、ちょっと」
言葉を濁して、ごめんね、とまた春樹は呟く。
「今日はちゃんと授業も出なきゃって、思ったんだけど。じゃないと先生、一人で昨日のこと責任感じちゃうでしょ」
つい今しがたの後悔を気取られたようで、小林は言葉に詰まった。
同時に、情けないような、悲しいような気持ちになった。どうして自分よりよほど年若い春樹が、自分の負った傷も見せずに隣で笑っているのかと。
今だって本当は、小林の前に立つことが苦痛に違いない。なのに小林に気を病ませまいと、わざわざこうして謝りに現れた。小林のために。
「――河瀬は」
向き合わなければ、と小林は思った。
「なんで俺が、紘介のこと見てるってわかった?」
小林に問われ、面食らったように春樹は目を瞠る。
「…先生が俺の話聞こうとするなんて、珍しい」
これくらいの皮肉は許せとばかりに意趣返しをして見せて、春樹は苦笑した。
「そーだなー。はじめは先生のこと、全然興味なかったよ。一目惚れとかじゃなかった。意外かもしれないけど」
きっと春樹が小林につきまとう理由をそんな軽薄なものだと思っていただろうと、牽制するように春樹は断っておく。
「でも、いつだったかな……一年の夏くらい。先生がこんな風に、ここでぼーっと外眺めてるのを見かけて。なんかどことなく幸せそうな雰囲気なんだけど、でも何見てんだかさっぱりわかんなくて」
春樹が小林につきまとうようになったのはここ一年以内のことだったので、そんなに前からなのかと小林は内心驚いた。
「何見てるのかはそれからもずっとよくわからなかったけど、先生にはそうやって、幸せな顔しててほしいなって思ってた」
その頃自分の肌にかかる成田健二からの性暴力がエスカレートしてきていたことを春樹は思い出しそうになったが、今は、とその記憶を深く沈める。
「けど、二年になって、窓の外見てる先生の様子が前と変わって。表情は前からほとんどなかったけど…なんかつらそうな、切なそうな。それで、前と何が変わったんだろうって見てる先を探していったら」
ついと、春樹の指先が向かいの校舎を指す。
「新しく来た先生と、萱島が仲良さそうにじゃれてて」
それで小林が誰を見ていたのかが分かったと、春樹は種を明かした。
「それからよく見てたら、けっこう先生も萱島と仲良かったんだなってことに気づいて。でも傍から見てたら、萱島は先生の気持ちに気づいてて、でも気づかないフリをして遠ざけようとしてるように見えて」
「…俺にはわかんなかったよ」
「うん…だろうと思った。ごめんね先生、俺一回だけ、お節介なことした」
「お節介?」
「萱島に、先生のこと自由にしてやれって」
ズキンと、小林の左手が脈打ったように感じた。もう包帯も湿布も取ってしまったそこは、腫れも引いたはずだったのだけど。
「萱島昨日、先生に何か言ってきたんでしょ?」
だから自分相手に血迷った行動に出たのだろうと、責任を感じたような声に小林は首を振って小さく笑んだ。
「…河瀬は悪くないよ。いずれはこうなるって決まってたんだ。それが昨日だったってだけの話で」
痞えをため息で逃がして、一度肩を大きく落とし、小林は背を正して春樹に向き直った。
「もっと早く、お前が俺に本気だって気づいてたらよかった。俺は、お前に言わなきゃいけないことがあるよ」
改まった声を聞かされて、少しの期待を込めて春樹も背を正す。
「…河瀬、俺はだめだ。お前の気持ちには応えられない」
けれど渡された言葉は春樹をきっぱりと拒絶するもので、山すそに引き込まれていく西日が明るく照らす小林の顔に、春樹は嘘を見つけることができなかった。