放課後、自習室で勉強していた春樹が下校のチャイムに促されて外に出ると、教員の駐車場にまだ小林の車が残っていた。
おかしいな、と首を傾げて春樹は顎をつまむ。今日は体調不良を理由に、午後の数学の授業に姿を現さなかったのだ。
その後春樹はいつもの数学教材室に出向いたのだが、部屋は施錠されていて電気もついておらず、職員室にも小林はいなかった。てっきりもう帰ったのだろうと思っていたのだが、いったいどこにいるのだろう。
(まさか保健室? …いや、それはない)
相変わらず暇さえあれば萱島は隣の心理相談室に入り浸って、岬と二人で和気藹々と談笑している。そんな姿を、小林はわざわざ間近で見せ付けられに行くほど愚かではないし強くもない。
それにしても、たぶん車を置いて帰ることはしないだろうから、まだ校舎のどこかにいるのだろうと思い、春樹は小林を待つことにした。
他の生徒や教師に訝られないよう、小林の車の陰に隠れるようにして座り込む。
そのまま寒さに手をこすり合わせながら小一時間ほど待った頃、ようやく職員玄関から、どこかおぼつかない足取りで小林が現れた。
「先生」
車の方へ寄ってくる小林に声を掛けると、小林は腫れぼったい重そうな瞼を上げて春樹を見た。
泣いたの、と春樹は問おうとして、訊けなかった。信じがたいことに小林が、春樹に向けて笑いかけたからだ。
「…河瀬。なに、ずっと待ってたの?」
そんな風に小林が春樹へ笑みを向けるのはもう一年ぶりくらいのことで、とっさに返事もできずに春樹はただ頷いた。
「そっかー。寒い中待たせて悪かったなー。じゃあ今日は特別に乗せてってやるよ」
そう言って小林は助手席側のドアをわざわざ開けて、春樹を中へ促す。背を押されるままに春樹が乗り込むと、ドアを閉めてくれて小林は運転席に回って乗り込んだ。
明らかに不自然だ、と春樹は思った。小林が自分を車になど乗せてくれるわけがない。
「誰かに見られるとめんどくさいから、しばらく顔伏せときな」
やさしい仕草で後ろ首を撫でられて、いよいよ春樹の中の不審感もピークに達する。
「…先生、酔ってるの?」
「はあ~?バカねー、今日び公務員が飲酒運転なんかしたら一発で懲戒免職よ」
「だって、しらふで先生がまともに俺と接してくれるなんて思えない」
「だから今日は特別だって言ってるでしょ。どこでも連れてったげる、どこがいい?」
浮かれた様子で訊く小林がふと赤信号で止まり、隣の春樹をじっと見据えてくる。
「…ホテルとか?」
その目つきに、ああ、と春樹は思った。
捨て鉢なそれは、かつて成田健二の中に見たものと同じだ。
「制服の男子生徒をホテルなんかに連れ込んだら、それこそ一発でクビなんじゃないの」
「はは。それもそうね。じゃあ俺の部屋にしようか」
正気か、と疑う間に信号は青になり、小林は車を発進させる。
ハンドルを握る小林の左手に包帯が巻かれていることに気づき、おそらくその手当てをしたのが萱島なのだろうことにも気づいたけれど、この状況でそこに触れていいのかどうかも分からない。
どうすべきか春樹は惑いながら、自宅へ向かう小林を止めることもできなかった。
小林はあるマンションの脇の駐車場に車を停め、その二階の自室へ春樹を招き入れた。そこはとりたてて広くも豪奢でもない1LDKで、男の一人暮しらしく何の愛嬌もない実用一点張りの家具が並べられていた。
見かけどおりわりときれい好きなのか、今朝脱いでそのままなのだろうスウェットがソファに乱雑にかけてある以外は、室内はかなり片付いている。
対面のキッチンで小林が飲み物を準備している間、春樹はソファに座ってローテーブルに置かれたパソコン雑誌を手持ち無沙汰に手に取ってみる。が、ぱらぱらと中を見ても、春樹にはいまいちよくわからない内容ばかりだった。
「先生、パソコンとか得意なの?」
問うと、顔を上げて春樹の手にしている雑誌を見て、小林がああ、と声を上げる。
「俺大学で工学部だったんだよ。機械制御とかやってたから、一応通り一遍のことはできるよ」
「ふーん…」
「河瀬も理工系に進むんだったら、コンピュータには早いうちから慣れとくといいぞ」
「…なんか教師みたいなこと言ってる」
「そりゃまあ教師だから」
言いながら小林は、淹れた二人分のコーヒーをテーブルへ運ぶ。
「こんな教師らしからぬことしてるのに?」
隣に座ってきた小林を胡乱げに見やると、すいと小林は顔を近づけてきた。
「じゃあ今は教師やめてみようか」
そのまま唇が触れそうになり、すんでのところで春樹は後ろへ退いた。
「……何のつもりで俺を部屋に上げたの?」
避けられたことを不思議そうにしている小林に問うと、小林はまた目を細めて笑う。
「お前は何のつもりでここまで来たの? ずっと俺に絡んできてたのは目的があってのことじゃなかったのか?」
小林の包帯の巻かれた左手が春樹の右手を取り、自分の左の頬へ導く。その手のひらに、見せ付けるように、ゆっくりと小林はキスをした。
「お前が慰めてくれるんだろ?」
上目で挑発してくるその表情に、つい春樹の理性が揺らぎそうになる。
「失恋したんだ、慰めろよ」
言いながら、小林が春樹の手を頬から首へ下ろしていく。その熱に、春樹は自分の腹の底に火を点けられたような感覚を覚えて眉を寄せた。
「…思春期の男の理性がどんだけ脆いか、先生も男ならわかってるよな?」
脅すような低い春樹の声に、小林は満足げに笑う。
「いいよ」
婉然と唇をゆるめた小林が自分から着衣を解こうと手をかけた瞬間、春樹が小林の首に触れた手を抜いて、小林の胸を押すようにして突き放した。
バランスを崩して、小林がソファから落ちて床に倒れる。そのまま春樹がのしかかってくるかと小林は身構えたが、春樹はソファに座ったまま、冷ややかに、でもどこか口惜しそうに小林を見下ろしていた。
「……何がいいよ、だ。やらねーよ」
「河瀬…?」
「くだらない芝居うつなよ。あんたの考えてることなんか全部分かってるよ俺」
小林を睨み下ろす目が、徐々に潤んでくる。
「一回寝れば俺があんたを手に入れた気になって満足すると思ってるんだろ。そんで後は俺と付き合ってるフリして、卒業までの間、求められたときだけ足開きゃ俺の気が済むと思ってんだ。期間限定で俺のこと騙すくらいわけないって」
違うと、否定の声を上げられずに小林はただ目を逸らした。
「…自棄になって、自分のこと傷つけたくなる気持ちはわからないでもないよ。だけど」
語尾が震え、春樹の目から雫が落ちる。
「それに俺を使うなよ。俺に、先生を傷つけさせるなよ」
かすれて消え入りそうな声に、ようやく小林は、自分が春樹にひどい仕打ちをしたのだと自覚した。
「…河瀬、」
小林が春樹の腕に触れようとすると、それを振り払うようにして、春樹は自分の涙を袖で乱暴に拭った。
「ごめん、俺帰る」
鞄を持って立ち上がり、玄関へ向かおうとする春樹を小林が慌てて追う。
「河瀬、もう遅いし道が」
「道なら分かる、さっき駅があったの見えたからひとりで帰れる!」
あまり大きな声を立てない春樹の怒鳴るような声に、小林はびくりと身を引いた。
「ひとりで帰れるから……ひとりにして」
そう言って、春樹は部屋を出て行った。
部屋にはまだ、湯気を立てたままのコーヒーカップがふたつ、並んでいた。