窓際の憂鬱 -03-


 小林が初めて萱島と出会ったのは、六年も前。小林が成人し、大手を振って酒類を提供する飲食店へ出入りできるようになった学生の頃のことだった。
 その店というのも、小林と同じように同性を好む性癖の人間が出会いやその夜を共に過ごす相手を求めて集うような、つまりはそういう飲み屋だ。
 そこに小林が出入りするようになった頃から、店内では萱島のことが伝説のように語られていた。
 長身で、ずば抜けた容姿の持ち主であること。飲みには来てもたまにしかその場で出会った相手をお持ち帰りすることはないが、一度彼に抱かれるともう他と寝る気がしないほど素晴らしい一夜の思い出を作ってくれること。
 小林はその噂の男にまだ会ったことはなかったが、実際に彼と関係を持ったことのある客や店主の話を聞かされる中で、想像の中の男への興味は膨らんでいった。
 それからもしばらくは小林が萱島と顔を合わせることはなかったが、半年が過ぎた頃、久しぶりに寄った店のカウンターの隅で小林が店主ととりとめもなく話をしながら酒を飲んでいたところに、その邂逅は叶った。
「火、ちょうだい」
 そう言って新しい煙草を指先に掲げながら隣に座ってきた男を振り仰いで、一瞬小林は言葉を失った。それほどの美青年がそこにいた。
「あ、いや…俺吸わないから…」
 出そうにもライターなど持ち合わせてはおらず、間の悪さを小林は呪った。もし自分が喫煙者でライターを持ち合わせてさえいれば、これを機にこの男と近づくことができたかもしれないのに、これではこの男は他の席に移ってしまうだろう、と。
 しかし隣の男は薄く笑いながら、小林の目の前に置いてある小さなカゴを指差した。小林がそれを覗き込むと、店のマッチが数個、並べて置かれていた。
 迷いもなく小林はそのうちの一つを取り上げ、火をつけて男に差し出す。男はフィルターに口をつけながらその火をもらい、吸い上げた煙を天井へ向けて吐き出した。
「そこにマッチあってよかったな」
 男がそう言うのに、男を引きとめようと必死な自分の様を嗤われたのかと思って一瞬居心地の悪さがこみ上げたが、続けて男は、
「お陰でスルーされずに済んだ」
 などと言う。自分の方が助かった、とばかりに。
 相手に恥をかかせないスマートな態度に、もしかしなくてもこの男が噂の、と店主を振り返ると、店主は黙って笑顔で頷いた。
「俺は紘介。そっちは?」
 呼び合うために下の名を明かした男に、女の名のようで響きがあまり好きではない自分の名を名乗る。
「千秋」
 聞いて、男は笑うでもなくその名を反芻し、少し、肩を寄せてきた。

 それからしばらくはとりとめもなく世間話のような会話を続け、酒も進んで少し小林の呂律が怪しくなってきたところで、ふと紘介が薄闇にまぎれて小林の腰を抱いた。
「外、出るか?」
 その先があることを予感して、小林は赤らんだ頬を隠すように頷いた。
 店を出て、程近いホテルへ紘介は小林を連れ込んだ。部屋に入って意志を確認するように軽いキスをする。それを小林が拒まないのを確認すると、そのキスは深くなった。
 巧妙なキスにそれだけで体の内を探られたようで、膝が抜けかけて小林はそのキスを制止する。
「シャワー…浴びてくる」
 欲情に溶けた顔を見られるのが恥ずかしくて、小林は急いで浴室へ逃げ込んだ。
 初対面の男とホテルに来ることは、慣れているわけでもないが初めてでもない。なのに今までに感じたことのない妙な昂揚があった。完全に一夜の相手目的で近づいてきた他の男たちとは明らかに違う扱いに、どう振舞えばいいかわからない動揺と、初めてそんな風に自分を扱ってくれた男への、たぶんそれは恋心のようなもの。
 思えば小林には、恋人と抱き合った経験がない。学校ではずっと自分の性癖を隠してきたし、店に出入りするようになっても関係はいつも一夜限りだ。初めて男に抱かれたときは、お初だと明かすと相手は面倒そうにではあるが、一応優しくしてくれた。だからセックスに対してそれほど悪いイメージはないのだけれど、いつもどこか自分が性欲処理に使われているだけだという被虐的な感覚が付きまとった。
 求められて抱かれるって、どんな感じだろう?
 憧れ夢想していたそれは、たぶんこんな感覚なのだろう。抱かれることに、何の後ろめたさも感じないでいられること。それが今までの小林にとっては、当たり前のことではなかった。
 いつもより念入りに全身を磨き上げて浴室を出て、ベッドで待っていた紘介と交代する。シャワーの水音を聞きながらベッドに投げられた紘介の上着に頬を寄せると、肩口からやわらかいコロンが香った。

 浴室から出てきた紘介に小林が触れようとすると、お前は何もしなくていいからと、紘介は小林にキスをした。そのまま小林が羽織っていたガウンを肩から落とし、焦らず肌を合わせてくる。
 与えられるだけの行為は初めてで、ベッドに横たわってされるがままの小林は、快感に惑乱して泣いた。その涙を紘介は恋人にする仕草のように拭い、また深く口づけながら傷つけないようゆっくりと小林の身の内に入っていった。
 休憩ではなく宿泊だからと、夜通し何度も遂情を迎えながら、小林は勘違いしそうになる自分を必死で叱咤した。
 恋人などではない。ただ夢を見させられているだけだ、と。
 店主や、それまで紘介に抱かれたことのある常連たちからも聞かされていた。どれほど夢見心地の一夜を過ごしたとしても、それは自分だけ特別に与えられたものではない。その夜が終われば、彼は同じ優しさで別の誰かを抱くのだ。その優しさは自分への愛情から来るものではなく、単なる彼の主義なのだと。
 実際、紘介と二度以上関係を持ったことのある者は、店内にもほとんどいなかった。勘違いしてしつこく付きまとったりすると、容赦なく紘介は跳ね返すのだという。
 残酷だ、と、優しすぎる腕の中で小林は泣いた。
 手に入らないなら、こんな優しさの存在は知らせないでほしかった。こんな幸福があるなんて、知らないままでいたかった。ずっと自分は誰かの性欲処理班で、そんなものだと思い続けていられた方がよかった。
 どうせ手に入れられないのなら――。


 翌朝ホテルの前で別れて、それからやはり、二度と小林と紘介が関係を持つことはなかった。
 一度店で紘介の姿を見かけたけれど、その隣に他の男がいるのがわかった瞬間、小林はその場にいられず店を出てしまった。それきり、その店からも足が遠のいてしまった。
 それ以来一度も会っていなかったのに――二年も経って大学を卒業したその就職先で、まさか同期として同じ職場で働くことになるなんて、思ってもみなかった。
 動揺しきりだった小林と、まるで初対面のように無表情で冷静だった紘介。彼の中で自分が忘れられているのなら、もう過去の事実はなかったことにして、一から彼に恋をしてみようと、小林は決めた。そうすればいつか、ちゃんと紘介に向き合ってもらえるかと思って。
 ――お前のこと、忘れてなんかなかったよ。
 けれど、紘介は違った。
 ――忘れてるフリ、した方がお互いのためだと思って初対面装ってた。
 ゆきずりの関係を持った事実は、消えてなどいなかった。
 ――そのことがお前を傷つけたことも、それからずっとお前が俺のこと見てくれてたことも、俺は知ってたよ。
 そして、気持ちは知られていて、それでも通じ合うことはなかったのだ。
(潮時……か)
 長い片想いに、一つの結論がつきつけられて。
 急に実感が迫って、めまいがした。
「はは…」
 乾いた笑いが口から漏れて、小林は、ひどく泣きたくなった。