窓際の憂鬱 -02-


 祝賀イベントから一夜明け、卒業式後の体育館の後片付けさえ終わってしまえば、校内は春休みまでの間、また通常授業に戻る。けれど生徒たちは間近に長期休暇を前にしてどこか浮き足立っていて、こんな状態で授業をしてもあまり頭には入っていないだろうなと思いつつ午前中の授業をこなし、小林は職員室へ戻ってきた。
 職員室全体で取りまとめて注文する弁当屋の弁当を食べ、容器を片付けようと席を立とうとして机に左手をついた瞬間、思いがけず痛んだ手首に驚いて思わず 「いてっ」 と小さく声を上げてしまう。
 シャツのカフスを開けて袖をまくると、そこは一時間ほど前に見たときよりも赤く腫れ上がっていた。
 午前中、少しぼんやりしながら階段を上がっていた小林は、向かいから姦しく駆け下りてきた女生徒たちを避けようとして、階段を踏み外したのだった。幸い三段程度しか上っていないところからだったので、踊り場へ尻餅をついただけで大した怪我はしなかったのだが、そのときに咄嗟についた左手をどうやらしたたかに捻ってしまったらしい。
 無様に尻餅をついた気恥ずかしさもあって、謝りながら助け起こしてくれた女生徒たちに痛みを気取られないようにその場はやり過ごしたのだが、そのときよりも腫れも痛みも増してきているようだった。
「あら、手首腫れてません?」
 隣のおばちゃん体育教師に覗き込まれ、すっと小林は袖を引き下ろした。
「ちょっと転んじゃいまして」
 笑いながら言うと、おばちゃんはかえって心配そうに眉を寄せる。
「無理しないでちゃんと湿布とかしてもらった方がいいですよ。打ち身や捻挫も長引くとつらいですから」
「はあ…そうですね」
「休憩のうちに保健室で手当てしてもらってきたらどうです? 午後の授業までまだしばらくありますし」
「はい、じゃあそうします」
 強く勧められて、小林は素直に席を立つ。とはいえ、向かった先は一階の保健室ではなく、二階の救護室の方だった。
 保健室の方へは半ば遊びに行くような生徒もいるが、救護室にはそういった生徒もいないため、長居している先客と鉢合わせすることもおそらくないだろう。
 しかしそれ以上に、小林は萱島と顔を合わせることを避けたかった。
 岬と想いを通じ合わせた萱島と、それを知っていて会いたくはなかったのだ。
「失礼しまー…」
 だがそれなのに、ノックをして開けたドアの先には、救護室にはいないはずの長身があった。
「…おう。どーした」
 棚から常備薬を取り出しながら振り返った萱島へ、慌てて小林は笑みを取り繕った。
「あ…れ、なんで紘介こっちにいるの?」
 少し、声が震えた気がした。
「救護室の先生、今外出中でいないんだよ。その間に備品の棚卸やっちまおうと思ってな。年度末だし」
 言いながら、手にしていた薬のケースを脇に置き、萱島は処置用の椅子に座る。
「ん」
 見上げられて手を差し出され、小林は思わず左手を背に回した。
「なに?」
「…手。どうかしたんだろ? 出せよ。診てやるから」
 隠しても無駄だとばかりに、断定的に言って萱島は差し出した手を振り催促する。
「や…いいよ、出直すよ」
「いいから見せろって」
 俺の腕を信用してないのか、と冗談めかして言われ、ここで固辞するのも不自然な気がして小林は萱島の向かいの椅子に腰掛けた。
「午前中に捻っちゃって」
 袖を上げながら差し出した手を、萱島は思いがけないほど優しい手つきで取る。
「あー、けっこう腫れちまってるな。痛いだろ。ちゃんと冷やせよな」
 熱を持った手首をそっと撫でるように触れられて、小林の全神経がそこに集中する。毛細血管までくまなく拡張して、まるで触れられたそこが心臓になったような気がした。
(やばい…俺、顔赤くなってるかも…)
 必死で気を逸らしながら、よどみない手つきで冷湿布を貼った上から包帯を巻いていく指先を小林は見つめる。
 ふとその包帯の巻き終わりを留める金具を取ろうとして萱島が振り返ったとき、弾みで小林の手首を握る萱島の手に力がこもってしまった。
「…った!」
 それほど痛くなかったのに、それまでの丁寧さからの反動で大袈裟に声を上げてしまうと、慌てたように萱島が両の手で小林の手首を撫でさする。
「悪ィっ、引っ張ったな」
「あ、いや大丈夫、平気平気」
 右手を振ると、今度は衝撃を与えないようにとより丁寧に萱島の手が金具を留める。
「サンキュー、助かったよ」
 手当ての礼を言い、妙に自分の顔が熱い気がする小林はさっさと部屋を出て行ってしまいたかったのだけど、なぜか座ったままの萱島は小林の手首を軽く握ったまま、巻かれた包帯を見下ろしてじっとしている。
「…紘介?」
「……ごめんな」
 呼びかけると、静かに萱島は小林へ謝った。
 一瞬、さっき手当てが乱暴になってしまったことをまた謝っているのかと思ったが、すぐにそうではないと小林には知れる。こんな風に自分に対して頭を垂れる萱島の姿を、小林は初めて見た。
「お前のこと、忘れてなんかなかったよ」
 その言葉に、小林は自分の顔を赤く染めていたであろう血液が、一気に足元まで落ちていくのを感じた。
「この学校で再会したとき、内心すげえびっくりしたけど……忘れてるフリ、した方がお互いのためだと思って初対面装ってた」
「…紘…」
「そのことがお前を傷つけたことも、それからずっとお前が俺のこと見てくれてたことも、俺は知ってたよ」
「…――」
「知ってたのに、今まで何も言ってやれなくてごめん。ずっと、いつかはちゃんと話さないといけないとは思ってたのに、……ほんとごめん」
 萱島が、握っていた手をそっと放す。支えを失った手は、ゆっくりと小林の膝に落ちた。
 包帯を見つめる小林の視界の奥で、萱島が椅子を立つ。
「…今まで何も言わなかったのに、今このタイミングでその話をするっていうのは」
 そのまま部屋を出ようとする萱島を呼び止めるために、後姿を振り仰いで小林は声を絞り出した。
「やっぱりそれは、岬ちゃんと想いが通じたこの機に、身辺整理しようってことなわけ?」
 問いに萱島は足を止めて振り返ったけれど、黙ったまま何も答えない。
 視線を合わせたまま沈黙が落ち、それに耐えかねたように萱島は踵を返して救護室を出て行った。
 一人残された小林は、低い椅子からしばらく立ち上がることもできない。
 そうしているうちに午後の授業の始まりを知らせる予鈴が校内に響き、しばらく感覚も失っていた小林の左手は、俄かにひどく痛み始めた。