卒業式が終わり、もうほとんどの生徒が下校した校舎にチャイムが響いた。
門出の日によく晴れてくれた空は、日がだいぶ長くなってきたとはいえ、もう傾きかけた太陽がオレンジ色に染め始めている。
各教科の教材室が並ぶ第二校舎二階の端、数学教材室の前でずいぶん長く立ち尽くす長身の影。いつまでそうしているつもりだろうかと、いつまででも待つつもりでいた春樹もさすがに待ちくたびれて声をかける。
「先生」
春樹がすぐ傍の階段に座っていたことなどとっくに気づいているはずなのに、それにも慣れてすっかり開き直った長身はその呼びかけにも振り返らない。
無視を決め込まれて、春樹は立ち上がって長身の隣に並んだ。
眼前の窓枠の向こうには中庭、そしてその向こうには第三校舎。ここで春樹はこんな風に二人並んで、幾度も同じ景色を眺めてきた。
「もう帰ろうよ。あいつらももうとっくに帰ったじゃん。感傷に浸りたいのはわかるけどさ」
「うるさいよ」
春樹が肘で軽く小突くと、窓の外を見つめたままの小林がようやく声を返した。
「早く帰れよ。今日は校舎閉まるの早いぞ」
あくまで教師としてしか自分と接しようとしない小林に、めげずに春樹は舌を出す。
「ヤダ。先生だけ残して帰んないよ。先生を慰めるのは俺じゃなきゃヤダ」
大真面目に言う春樹を、ひどく迷惑そうな顔で小林は振り返った。
「お前に心配される筋合いないよ…」
「先生にはなくても俺にはある。ねぇ、失恋の傷心を癒すのは新しい恋だよ? 俺なら先生のコト」
「うるさい早く帰れ」
皆まで言わせず、小林は自分より少し低い位置の肩を突き飛ばす。そして不機嫌に眉を顰めたまま踵を返し、数学教材室の中に入って内鍵まで閉めてしまった。
「先生ー? ねぇ、まだ帰んないの? 泣くなら俺の胸で泣こうよー」
ドアの前で声を張るが、中からは何の応答もない。こうやって小林が自分の殻に閉じこもってしまうと長くなるのは、既に春樹には知れたことだった。
この人気のない寂しい廊下で、共に過ごした時間ほどに交わした言葉は決して多くはないけれど。何を思うか悟らせないようでいて、よく見ればただただ切なさだけを湛えた視線の先にいたひと、そのひとも独りなら、小林の気持ちを止める理由もなく春樹は何も言わずに隣で同じ眺めを多く共有してきた。
けれどその眺めの中でそのひとは今日、独りではなくなった。
「先生…」
自らの目で見た現実を未だ抱えきれないでいるだろう小林を、こんな場所に残していくのは忍びなかったけれど、もう一度呼びかけてもやはり応えはない。
仕方がないので春樹は、ひとつため息をついて階段を降りた。
教材室の中に立てこもって、廊下に春樹の気配がなくなったのを確認した小林も、ひとつ深いため息をつく。
河瀬春樹、来月からはこの学校の三年生になる男子生徒。担任になったことはないが、一年次も二年次も小林が数学を受け持っていた。
理系科目はよくがんばっている方だが、取り立てて成績が突出しているわけでも、性格的にクラスで目立つタイプなわけでもない。どちらかといえば物静かで感情の起伏が少なく、気性の穏やかな扱いやすい生徒だと思っていた。
しかしもう今となっては、春樹は小林にとって理解不能な相手となっていた。
小林が一人でいるところに黙って現れては、ひとしきり傍でじっと小林のことを眺め、ぽつりぽつりと他愛もない話を振ってくる。それに適当に返していると、急にずけずけと人のプライベートな領域に立ち入ってくる。しかもそれが全く的外れではなく、図星ばかりを突いてくるのだ。
初めてそんな風に近づいてきて、「先生片想い中なんだ」と納得したような口調で言われたときには、あまりに驚いて二の句が継げなかった。ただ遠くから見つめるだけの、誰にも悟らせていないはず、悟られるはずのない想いだったからだ。
そう、それは約一年前――この学校に守谷岬が赴任して間もない頃のこと。
「あの人は無理だと思うよ。諦めた方がいい」
そう淡々と告げる春樹のことを、小林は否定することも忘れてまじまじと見つめてしまった。
「諦めて、俺にしとこう?」
小首を傾げて言う春樹の言葉の意味も、よく飲み込めないまま。
それ以来春樹は、小林からどれだけ邪険にされてもめげる様子はなく、振り払おうとしてもその指先が届かない絶妙な距離で、小林につきまとい続けている。
(空気だ。あいつは空気みたいなもんだ。気にしなければ害はない。気にしたら負けだ)
そう決めてからは、もう小林は春樹の存在を意識しなくなった。小林が懲りずに窓の外を眺め続けていたとしても、春樹はほとんどそれに対して意見してくることはないし、今日のようにこの想いを諌めるようなこともまず言わなかったからだ。
べつに春樹のことを自分の理解者だと思うつもりもないし、かといって理解してもらえないことを恐れて隠し通すべき相手でもないと、小林は開き直っている。だから、自分が 『彼』 を想う傍らで、そんな自分をどう見られていたって構わないと、そんな風に。
春樹の告白のようでいて感情のこもらないセリフの数々を、小林はまともに取るつもりなど毛頭ない。
不覚にも自分の中の隠していた気持ちを知られてしまい、それをネタにからんでくる春樹にはほとほと参ってはいるが、いつかそれにも飽きて春樹の方から離れていくだろう。
せいぜい長くてあと一年、彼が卒業するまでの間のことだ。卒業さえしてくれればまた自分の気持ちを知る者はいなくなり、以前までの平穏な日々が戻ってくる。
(前までと、同じ日々が――)
そう考えて、胸をちり、と灼くものを、小林は感じないようにした。
わかっている。
前と同じには戻れない。
自分が求めていたひとは、彼自身が求めていたひとを手に入れてしまったから。