学校から解放された興奮からか異様なテンションで保健室へなだれ込んできた生徒たちの波も引き、ようやく一息つけるかと窓辺に寄って萱島が煙草に火をつけたところで、外から見ていた残党たちが校内で喫煙すんな、と萱島を呼び捨てる。けらけらと全く無邪気に笑い合っている生徒らにうるさい早く帰れ、と声をかけながら、萱島はつけたばかりの煙草を灰皿に押し付けた。
教師であろうと校内で、しかも生徒の前で喫煙などというのは言語道断で、見つかるたびに古参の教師に叱りつけられる萱島だったが、一人でいることの多い保健室という環境上、やめようにもやめられないのが切実な現状だった。
それでも守谷の傍ではなるべく数減らしてたんだけどな、と、思って萱島は苦笑する。諦めの悪い自分への嘲笑だ。
元から、ストレートになど興味はなかったはずなのだ。それなのに、柄にもなく一目惚れなんかして、手を伸ばしてしまうから傷つくのだ。色恋沙汰での傷心など、全く萱島には縁深いものではない。
少しは自分を必要としてくれているのだろうと自惚れていたところへ、全く信用されていなかった事実を知って。萱島は岬を、どれだけ頑張っても想いの届く相手ではないのだと、諦めることにした。
諦めることにして、もうここ一ヶ月ほど、ほとんどまともに顔も合わせていない。そうして距離を置けば、忘れられる予定だったのだが。
「俺もたいがいしつこいわ。めんどくせーなぁ」
会わなければ会わなかったで、また何か一人で抱え込んで悩んではいないだろうかと、筋合いでもない心配をしてしまうのだ。
――親身になるふりして俺のこと懐柔して近づいて、落とすとか何とか、結局目的はやれりゃそれでいいんじゃないのかよ!!
出会って一年、想い続けた結果がその誤解なら、さすがに張っていた肩の力も抜ける。
最初から無理かもしれないことはわかっていた。だからこそ、一年だと期限をつけた。あれは岬に対する宣言でもあったが、自分自身への許容期限でもあった。一年で落とせないなら、それはどうしたって無理な相手なのだと。
「おし。本気で諦めんべ。本気で。本気で」
自分に言い聞かせるように繰り返して、帰り支度をしようと白衣を脱ぐ。
と、そこへノックの音が鳴った。
「なんだ、まだなんか用か?」
騒ぎ足りない男子どもがまた戻ってきたのだろうかとぞんざいに返事をすると、思いがけずそのドアは遠慮がちに開かれた。
「……守谷」
驚いて目を見開く萱島に会釈して、岬ははにかんで室内に足を踏み入れた。
「あ…もう帰るところでした?」
脱いだ白衣を指差され、居心地悪く萱島は再び袖を通す。
「いや、別にいいけど」
「なんか、緊張しました、保健室に入るの。実は僕、あんまりここに来たことないんですよね」
いつも先生の方から来てくれてたから、と、岬は消え入りそうに呟く。
突然の岬の来室の真意を測りかねて、いらいらと萱島は新しい煙草を噛んだ。
「だから何の用だよ」
人が諦める決心を固めたところへどうしてそう思わせぶりなことを言うのかと、つい萱島の口調がきつくなる。それを自分への怒りだと取って、岬は深々と頭を下げた。
「この間は本当に、失礼なことを言ってすみませんでした」
それだけ謝りたかったんです、と顔を上げた岬の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「よく考えてみれば、先生が僕をそんな風に見てたわけがないのに」
悔いる声を聞いて、そのことについては誤解が解けたのかと安堵しながらも、ぬか喜びを危ぶんで萱島は眉間に力を込める。
「…でも、あの場であんな言葉が出たってことは、どっかで実際そう思ってたってことじゃないのかよ」
怒りを解かない萱島の前で、岬は手の甲で瞼をこする。
「あの時は…僕、ほんとに錯乱してて。だからって言ったことが帳消しになるとは思わないけど、高橋くんの言う好きってことと先生の気持ちとが、どう違うのかわかんなくなっちゃって」
その時の恐怖を思い出したかのように身を竦ませる岬の姿に、萱島もその時の状況を思い返す。
そうは言っても高校生だと高を括っていた男を相手に、力づくで押し倒され、強姦されかけて。自力で押し返すことができたものの、その恐怖は相当なものだったのだろう。
そんな状態の時に勢いで言ってしまった言葉に責任を追及するのも、それは萱島の方こそ大人気なかったかもしれない。
「…もういいよ」
自分にも非はあるのだからもう謝らなくていいとそういう意味で、それがあの時岬を拒絶した言葉と同じものだと気づかないまま萱島は口にしてしまった。
その言葉に、岬の瞼がどっと涙を溢れさせる。
「お、おい?」
「…許してもらえないのはわかってるけど。先生がもう僕をいらないと思ってても、僕は先生がいなきゃ今まで頑張ってこられなかった」
拭う手が追いつかずに、涙はリノリウムの床へ落ちてゆく。
「僕はほんとに下らないことで躓くし、先生にどれだけ慰められてもそんな自分を変えることはできなかった。だから先生が僕を見限る気持ちもよくわかるけど」
こらえられない嗚咽を手の甲に押し当てて、岬は萱島の目を見据えて訴えた。
「僕には先生が必要です」
萱島の指が、ライターを机に置く。火をつけられることのなかった煙草は、床に落ちた。
はっきりと岬から思いを告げられて、けれど萱島はその言葉を素直に聞くことができない。
岬の前へ数歩進み、腰をかがめて萱島は岬の泣き顔を覗き込んだ。
「……んなこと言ったらまた俺、勘違いすんぞ」
「え…?」
岬には、それだけでは萱島の危惧は伝わらない。
「俺は、ちゃんと好きだよお前が。全然それは、変わってねえよ。けどお前は……違うだろ。オトコ、好きになれねんだろ。それは俺もわかってやれてるつもりだけど、やっぱり必要だって言ってもらえたらそりゃ嬉しいし、なんか、お前も同じ気持ちで俺のこと好きなんかって、勘違いする」
くしゃりと、子どもにするように萱島は岬の頭を撫でた。
「期待させといてやっぱダメだっつーのは、俺もきついんだよ」
「先生、」
「だから今のは、聞かなかったことにしとくな」
ふ、と、今まで見せたことのないような気弱な苦笑を萱島が浮かべる。そしてそのまま踵を返そうとする萱島の袖を、咄嗟に岬は掴んだ。
「僕は」
緊張した喉が、ひくりと音を立てる。
「今まで同性を好きになったことも、なることを考えたこともなくて、だから、これが先生のと同じ意味なのかなんてわからないけど」
うまく言葉で伝えられないもどかしさに焦れて、拙い必死さで岬が唇を噛む。
「先生、一番最初に言ったでしょ」
「え…?」
袖を離れた岬の指先が、萱島の指に絡んだ。
「……一年です、先生」
――まー見てろ、一年だ。一年以内に
――絶対落としてやる。
戯れのような声でそう言った一年前には、その間にこんなに苦戦するとは思っていなくて。
途中には、案外そんなにかからずに落ちるんじゃないかとほくそ笑んだ時期もあって。
けれど守谷岬という人間を知って、無理強いの利く相手ではないと知って。
大切に、ただ守り続けて。
全く得手ではないそんな想いが、一度は諦めたけれど、伝わっていなかったわけではなかったのだと、絡む指に感じる。
指を解いて、腕を引く。抗わずに従った体を、萱島はゆるく抱きしめた。
「俺の勘違いじゃ、ねんだよな?」
確認に、涙の絡んだ睫毛を上げた岬が、腕の中で笑った。
その穏やかな表情に笑みを返して、二人は初めての出会いと同じその場所で、初めてのキスをした。
<END>