抱きしめてくれる腕が温かい。
萱島先生に抱きしめられたまま僕は、このまま眠ってしまいたいほどの安堵に包まれていた。
目の前の肩越しに、実はあまり見慣れない保健室の風景がある。
始まりもここだったと、思い出して僕は眼を閉じた。
もう随分前にも思われる4月、初めてここを訪れたあの日。
「お前、俺とつき合え」
同じ男としてのプライドを刺激して仕方がない、長身の美形男にそう言って迫られたときには、とんでもないところに来てしまったと酷く後悔したものだった。
本気なのか冗談なのか、からかっているのか何かの厭味かと、僕の方は何度も行ったり来たりしたけれど彼は一貫して本気以外のつもりはまるでなく、今にして思えば強引さも卑怯もない誠実な態度でじっと見守っていてくれた。
この一年で、何人もの生徒と関わった。受験で悩む子、友人関係で悩む子、恋愛で悩む子……相談の種類も程度も千差万別で、けれど皆それぞれに一生懸命で、深刻だ。
僕はといえば、学問として臨床心理は勉強したけど、まだ四半世紀も生きていないような若造で、大学受験も大学生活も人並みの恋愛も経験はしているけど、人に語れるほど豊富ではない。むしろ生徒たちの相談事は僕自身があまり抱えたことのないような類のことが多くて、いつも何かの解決策を出してあげるというよりも一緒になって悩んでいるだけだ。
今もまだ僕は誰の役にも立てないまま、ここに居る。
* * * * *
僕が生まれたとき、母はとても嬉しかったのだそうだ。
生まれてきてくれてありがとう。あなたが生まれてきてくれて、私はやっと幸せになれる。あなたが居てくれたら、私は強さを持つことができる。
太刀打ちできる強さを。
母の遺品の中からその手帳を見つけたとき、僕は一瞬だけ喜び、そしてひどく絶望した。
手帳に小さな文字で書き付けられた日記。そこに溢れた愛はどれひとつ、子どもに対しては向けられていなかった。
何に太刀打ちする強さを自分が母に与えたのか。それは、母が愛した男の妻子に、対抗するための力だった。
自分にも彼の子どもができれば。対等な立場になれば。きっと彼は自分だけのものになってくれる。今の妻子を捨て、自分だけのものに。
盲目的に信じ、身を捧げ、愛し続けた母もいつしか力尽きた。
「あたしたちは要らないの」
包丁の水滴を布巾で拭いながら、母はそう呟いた。
男を手に入れられなかった母は、自らを要らないものと言い、そして役に立たなかった息子にもついに価値を見出しはしなかった。
「だから」
首に伸びてくる細く生ぬるい指を、僕は何を思うこともなく、ぼんやりと見つめていた。
僕は、何が自分を殺すのかを知っていた。僕はそれまでにも、何度も殺されていた。存在を認めてもらえない。愛してもらえない。僕が僕であることに何の意味もない。そうして母が僕を殺すことに僕は慣れていたけれど。
これが最後かもしれないと、思って。
今聞かなければ、もう二度と僕が母と口を利くことはないかもしれないと思って。
「僕はどうして、ここにいるの」
問うた。自虐的な行為だと、わかっていて。
「生まれてほしくて生んだんじゃなかったの? それとも僕は何かのために、必要だっただけなの?」
否定が、返ってくれば。
ただ母が首を横に振ってさえくれれば。
彼女が男へ向けて垂れ流し続けた愛のうちのほんの一片でも分け与えてくれたなら、僕は最初で最後の幸いを、死の淵で掴むことができたかもしれなかったのに。
「……」
母の掠れた小さな囁きは、僕には聞き取れなかった。ごめんねと、言ったのかもしれなかったけれど。
抵抗できないほどの力で首を圧迫されることは、思ったよりもずっと恐ろしかった。死ぬことなどもう怖くはないと思っていたのに、気道を潰されるような痛みと、苦しさと、徐々に目の前が白く霞んでいく感覚と。
恐怖の中で、僕は死んだ。確かに死んだのだ。母はきっと、僕が呼吸を止めたのを確認してその両手を放したのだから。
噎せながら意識を取り戻したとき、僕の口の周りは流した唾液がかさかさに乾いていた。起き上がると、体中が濡れていた。水分を吸ったTシャツは赤黒く染まっていた。僕が倒れていたのは、母の血液の海の中だった。
僕はたぶん、一度死んで、そして生まれ直したのだ。
指先が何か気持ち悪くて見やると、折れた爪の間に皮膚が詰まっていた。血まみれの母の手首には、たくさんの引っ掻き傷が残っていた。自分が母にこの傷を付けたのかと思うと、無性に悲しかった。
「おかあ、さん」
呼びかけても応えてはくれない。そんなのはいつものことだった。だけどいつか、この美しい母が自分に向けて笑いかけてくれるのではないかと、どこかで信じていた。
それももう叶わない。
何の役にも立たない僕は、ここに居ちゃいけない。
生きていちゃいけない。
じゃあどうして、僕は生まれ直したんだろう。
こんな僕でも、誰かの役に立つんだろうか?
誰かに愛されるんだろうか?
いつか
* * * * *
誰かの役に立ちたいと、僕はずっと必死だった。そうでなければ、自分が生きていることが許されないような気がして。
だけどやっぱりどうしたって自分が誰かの役に立ってるとかためになってるとか、そんな風には思えなくて。自分を許すことができなくて。堂々巡りを続ける僕の肩を、抱いてくれる腕があった。
――大丈夫だよ。何もやれてないことはない。
そんな慰めを、僕は片っ端から疑ってしまうけれど。
――自分には何もできてない、何の役にも立たないって、同じとこでぐるぐる回ってそんな顔ばっかすんな。
信じない僕に、焦れずに何度も彼は教えてくれた。
――お前が悲しい顔してると、俺がつらいだろ。
誰が、僕が、僕を認めなくても、彼だけは僕を否定したりはしないと。
今もまだ、自信はどこにも持てていない。だからその手が必要なのかと言われればその通りかもしれない。
だけど、理由がどうあれ、僕は彼を失いたくないと思った。自分が楽になりたいがための利己的な動機かもしれないけど、彼の傍にいたいと思った。
そしてそれを望めば彼は、その僕の望みを叶えてくれた。
そういうことなのだ。
腕の中で先生の顔を見上げると、身じろいだ僕に気づいて少しだけ腕の力を緩め、彼も僕を見下ろした。
「…どした?」
その顔があまりに優しい笑みだったものだから、つい照れて僕はすぐに下を向いてしまう。
「や…なんでも…」
恥ずかしくてどうすればいいかわからず、顔も上げられない僕を、先生は素っ気ないほどあっさりと解放した。
「おし。帰るか」
先ほどまでの雰囲気をなかったことにするかのような、いつもと全く変わらない態度で背を向けて白衣を脱ぎだした先生の姿に、一瞬僕の胸が不安にとらわれる。けれどすぐに、その胸はあたたかいものに満たされた。
先生の耳も、たぶん僕と同じように、真っ赤になっていたから。
「お前の気が変わんねえうちに、家まで送り届けてポイント稼ぎましょうかね」
軽口を叩く彼を、たまには僕がからかうのもありだろうと、背中からぎゅっと抱きついてみる。すると彼の体がわかりやすく硬直した。
「心配しなくても、気なんか変わらないです」
精一杯声を張った僕の腕を外させて、彼が振り返ってもう一度向き合う。赤い顔にしてやったりと笑いかけると、軽く額を小突かれた。
「…このまま帰るのもなんかもったいねえし。もっかいキスでもしとく?」
微妙に視線を外したまま腰をかがめた彼に向けて、もう一度、僕は瞼を閉じた。
<END>