一年 -01-


「なんか。先生元気ないね」
 不意に言われ、自分の手元を見つめていた岬が顔を上げる。
 正面に座っていた春樹が、相変わらず感情の見えにくい表情で岬の顔を覗き込んでいた。
「え? そんなことないよ」
 両手を振って誤魔化しながら、そんな風に言われるのはここ最近で何度目だろうと、弁解の言葉もそろそろおざなりになる。
 けれど春樹はそもそも他人にあまり興味がないのか、それとも人間関係においてはそのスタンスを保持することにしているのか、ならいいけど、とあっさり追及の手を引いた。
「そういえば、こないだ健二が先生のこと聞いてきた」
 紅茶を一口すすって幼馴染の言葉を思い出した春樹に、首を傾げながら岬もカップを取る。
「へえ。何て?」
「最近先生を困らせるような相談持ちかけてきてる奴はいないかとか」
「ははは。成田くんに心配されてもなぁ」
「萱島との進捗状況はどうかとか」
「ぶっ」
 何の心構えもなく聞かされた名前に、慌てた岬が噴出した紅茶で数滴テーブルが濡れた。
「あーもう、汚いなぁ」
「し、進捗状況って」
 どういう意味か、と岬は手の甲で口元を拭うけれど、すらっとぼけた春樹は飄々とカップの底を上げる。
「まあ何の進展もなさそうなのは見ればわかるけど。進展ということ以外での状況は俺も気になる。どーなの先生?」
「どーって何が!」
「喧嘩でもしたの」
「なんで」
「最近萱島ここ来てないから」
 図星を指されて、岬はテーブルを拭く手を止めた。言い返せる言葉もなく、先生を呼び捨てにしない、と甲斐のない説教を聞かせる。
「…来てないって、なんで知ってるの」
 春樹だってそうそう頻繁に来室するわけでもないのに、その断定的な物言いはどうしたことか。
 岬の問いには答えず、春樹はあさっての方向を向いて自分の膝に頬杖をついた。
「ある日を境にぱったり萱島は相談室に出向かなくなった」
「……」
「それは二月の初め、小雪の舞う寒い日で」
「ちょっ……?」
「先生はこの部屋を訪ねてきた三年生にゴーカ」
「わーーーーーっ!!!」
 皆まで言わせず、岬は立ち上がって春樹の口を両手で塞ぐ。
「だからなんで知ってるの!」
 顔を真っ赤にして喚く岬に口を塞がれていてはそれも教えられないと両手を外させて、春樹はあの日萱島が助けに飛び込んできてくれた窓の方を指差した。
「第二校舎の二階の廊下に、保健室とか相談室とか、この並びが良く見えるポイントがあるの。他のとこからだと中庭の木が邪魔して見えないし、三階以上からだと角度的に見えないんだけど。それはもう嘘みたいに良く見えるポイントが」
「そっ、そこから覗き見してたの!?」
「覗き見って、聞こえ悪ーい。俺だって好きで見てたわけじゃないよー。付き合い、付き合い」
「何の付き合いだよ!」
 言い訳にしたって適当に過ぎる春樹の言葉をぶった切って、思いがけず護られていなかったプライバシーの所在を思って岬は顔を覆った。
 春樹が今日ここへ来て、元気がないねと気遣いながらも追及してこなかった理由も知れる。要は全てお見通しであったのだ。
「あーもーイヤ。もー誰も信じない」
「ちょっと、そんなヘコまないでよ先生。俺は大抵の場合、先生の味方だからさあ」
 そう言って春樹は、胡散臭いほどの笑みを浮かべて、だから、と言う。
「話、聞くよ? 俺でよければ」
「……」
 聞いてもらうような話などない、と憎まれ口を叩きかけた口は、けれど無言のまま半開きで止まる。そのまま黙り込んでしまった岬に、春樹は困ったように笑いかけた。
「先生は、他人のことならよく見えるのにね。自分のことは見ようとしないんだ」
 見えていないのではなく、見ようとしないのだと春樹は言う。そんな自分を、岬は幼い頃からよく知っていた。
 見なければ痛まない傷もある。抱える痛みに鈍感でいなければならない理由が、岬にはあった。
「先生が見ない先生を、代わりに萱島がしっかり見てるよ」
 穏やかに春樹が教えるそれは、たぶん本当のことなのだろう。
 萱島がわかりやすく寄せてくれていた思いを、岬はちゃんと知っていた。
「……成田くんはきみのことが好きで、きみの好きな人も、同性なんだよね?」
 惑うような岬の問いに、躊躇なく春樹は頷く。それを見て岬の中の惑いはさらに大きくなる。
「僕にはわからないよ。同性を好きになることは、やっぱり普通のことだとは思えない。どれだけ大切な相手であっても、大事だって思いを恋愛にしてしまって良い結果になるとは思えない。好きならそれでいいって、現実はそんなに甘いもんじゃないだろう?」
 目を伏せて春樹は、冷めた紅茶を一口飲み下す。
「そうだね」
 そして春樹は笑みを消し、怒るではなく、いつもの感情の読めない表情で首を傾けた。
「だから、覚悟がないなら全部諦めた方がいい。受け入れる覚悟もないのにただ優しくされたいなんて考えてたら、いつまでも萱島に期待を持たせるだけだよ。それも酷な話だし……先生が毅然と拒絶すれば、萱島だって諦めがつく」
「諦め……」
 呟いた岬の視線が遠くなる。
 萱島の気持ちを受け入れることはないつもりでいながら、萱島が自分を諦めることなど、想像もしたことがなかった。
 そうして気づく。
 同性同士云々の覚悟よりも、よっぽど萱島を失う覚悟の方が、岬にはできていなかったのだと。



 桜が咲くにはまだ寒い三月、緑翠高校は卒業式を迎えた。
 卒業証書授与、校長挨拶、送辞、答辞と式は滞りなく進み、体育館から退場する三年生を拍手で見送る。
 式の後相談室に戻ってしばらくすると、クラスでのホームルームを終えた生徒たちが続々と顔を見せた。寂しいと言って涙を見せる者、笑顔で卒業後の進路を報告する者、様々いる中に松野の姿もあった。
「久しぶり、松野くん。怪我の痕は大丈夫?」
「大丈夫ですよ、ほら」
 笑って松野は、セーターとシャツを捲り上げて左手首を晒す。不自然に盛り上がった傷痕は、周りの皮膚とは少し違う、ピンクがかった色をしていた。
「麻痺も特にないし」
 歪んだ傷痕はそれだけで痛々しい。けれどそう言って明るく笑う松野に何を蒸し返す気もなく、岬も笑みを返した。
 松野は結局センター試験の結果が振るわず、今年は記念受験ということにして浪人することに決めたのだと聞いた。しかしそれでもこれだけ明るくいられるということは、家庭からのプレッシャーからも解放されて、これからは何にも惑わされずに志望校へ向かっていけるのだろう。
「そういえば、さっき萱島先生にも挨拶に行ったんです」
「あ、ああ、そう」
 その名にやはり戸惑いながら、保健室に耳をやると確かに、隣も生徒たちで溢れ返っているようだ。
「先生、萱島先生と仲良くね」
「え?」
「たぶん、先生が頑張るためには萱島先生が必要だから」
 唐突にそんなことを言われ、面食らいながらも、やがて岬は穏やかに笑んだ。
 この子にも、ちゃんと見えていたのだ。
「……そうだね」
 岬が頷くのを見届けて安堵したように笑って、松野は友人と連れ立って相談室を出て行った。
「ほんとに……僕は人に見守られてばっかりだ」
 独りごちた岬の目は、もう逸らされることなく隣室へ向いていた。