好き、ということ。 -02-


「今日はどうしたの?」
 ローテーブルに紅茶のカップを置きながら、ソファに腰掛けて岬が問う。テーブルの角を直角に挟んで座る高橋は、どこか思いつめたような目で岬を見つめた。
「…俺、不安で」
 呟く高橋に、岬は首を傾げた。
「何も、不安がることなんかないでしょう? センターの結果、すごく良かったって担任の先生から聞いたよ。センターの配点がけっこう大きいから、二次で少々ミスしたって大丈夫だろうって」
「受験は……大丈夫だと思うんです、けど。でも、大学に行くってことは、高校を卒業するってことじゃないですか」
 卒業したくないんです、と俯く高橋に、なんだそんなこと、と岬は軽く笑った。
「大学に入っちゃえばね、すぐにそんなこと思わなくなるよ。つらい受験勉強なんかもうしなくていいし、きっとすごく楽しくて、高校のことなんか忘れちゃうんだから」
 僕なんか高校時代の先生の顔なんかほとんど覚えてないもん、とおどけて岬は肩を上下させる。
「サークルにバイトにコンパに、楽しいよー。高橋くんなんて、背も高いしカッコいいから、すぐに彼女もできるだろうしね。生徒に忘れられちゃうのは寂しいけど、大学生活思いっきり楽しめばいいよ」
 だからがんばって、と肩に手を置いた岬の手首を、不意に強い力で高橋が掴んだ。
「――忘れたりしません」
「え…?」
「先生、」
 長身の高橋ががばっと立ち上がるのを、惑ってただ岬は見上げる。高橋は岬の手首を掴んだまま、逆の手で岬の肩を押し、その体をソファに押し付けた。
「先生俺」
「ちょっ…」
 急いたような荒い呼吸に高橋の思いつめた表情の理由が知れて、押さえ込まれるのに抗って岬は足を暴れさせた。そのつま先がテーブルに当たり、揺れたカップが倒れて中の紅茶が床に滴る。
「俺ずっと、先生のことが好きで」
「高橋くん、」
「これからも絶対、先生のことずっと好きだから。忘れるなんて、絶対ないから、そんなこと言わないでください」
「待っ……」
 キスをしようと近づいてくる顔から逃れようと、必死で岬は顔を背ける。
 テーブルの上でぐるりと不規則な円を描いたカップが、ガシャンと床に落ちて割れた。
「高橋くん、僕は男だよ!?」
 言っても甲斐はないとわかっていることを、けれど他に言えることもなく、外身だけはもう立派な大人の体の下で身動きも取れずに喚く。
「しかも教師だしっ!」
「だって、だけど萱島が」
 萱島がどうだと言うのか、まさか体育祭のあの暴露ネタを未だに信じているのだろうかと、岬は本気の力で高橋の胸を押し返す。しかし高橋も必死なので、形勢逆転どころかさらに不利な体勢へ持ち込まれてしまう。
「守谷~?」
 と、そこへ、隣室の物音に気づいたらしい萱島が、ドアの前から暢気な声で呼びかけてきた。
「せ…!」
 先生、と助けを求めようとした岬だったが、それは高橋のてのひらに塞がれてしまう。
 呼びかけに答えない岬を不審に思ってか、萱島がドアを開けようとする。しかし先ほど高橋によって内側から施錠されたドアは、ガタガタと音を立てるだけで開く気配はない。
「おーい?」
 廊下から、途方に暮れたような声が聞こえる。けれど答えを返すこともできず、さらに力がこもった高橋の手が、勢い岬の鼻までを塞いだ。
「んっ…!」
 急に呼吸を阻まれた岬が、惑乱して高橋の腕に両手の爪を立てた。
「先生…」
 掠れた、切実な声が岬を呼ぶ。
 高橋の片手が、岬の襟元にかかった。ひとつ、ふたつと釦が外され、晒された肌にくちびるが落ちる。
(萱島先生っ…)
 不快感に肌を震わせて、岬は近くにいるはずの男に助けを乞うた。
 しかし、応えのない岬への呼びかけを諦めたのか、もう廊下からは萱島の気配がない。
 絶望を覚えるより先に、酸素の供給を断たれた脳が、岬の視界を霞ませる。不意に岬の抵抗が緩んだのを了承と取ったのか、高橋が岬の耳元に吸い付いた。
 何度目かに岬を呼ぶ、その声がやたら遠くから響く。

 ――その窒息感が、閉じ込めたはずの遥か昔の記憶に、微かに触れた。

「あああああああ!!」
 火事場の馬鹿力というやつなのか、不意に蘇った恐怖に岬は、普段ならば決して出ないはずの力で高橋をソファから突き落としていた。
 そしてその岬の叫びを聞いた一瞬後、ドアとは反対側にある窓がガラリと開いた。
「何やってんだテメェ!!」
 先ほど喫煙のために開けていた窓の施錠をしていなかったことを思い出した萱島が、外を通って、雪に濡れた上履きも気にせず飛び込んでくる。そしてソファに横たわって胸元をはだけられた岬の姿を目に留め、頭に血が上った勢いで呆然と床にへたり込む高橋の胸倉を掴んで引き上げた。
「お、俺…」
 思いつめたあまりの自分の行動に、ようやく我に返って高橋は激しく動揺する。
「ごめんなさい、こんな…先生」
「ごめんで済むかバカ野郎!! テメ、守谷に何しようとした!? あ!? 言ってみろオラ!!」
 高橋を床に突き離し、蹴り飛ばしそうな勢いで萱島は怒鳴りつけた。それに泣きそうな顔で、高橋は首を振る。
「だって、俺…ほんとにずっと、守谷先生のことが好きだったのに。でも先生は俺のこと生徒としてしか見てくれないし、男だから仕方ないかと思っても、萱島先生とはやたら仲がいいしっ…。同じ男で同じように先生を好きで、なんで萱島は良くて俺はっ…」
「アホかお前!」
 目の前で呼び捨てにされたことよりも、何より自分が岬にしたことを反省しようとしない態度に腹が立って、萱島は平手で強かに高橋の頭を打った。
「頭ん中ヤルことしかねぇガキと一緒にすんな! つーかな、お前本気でこいつを好きだってんなら、襲う前にやること他にあんだろが。告白してその場で力づくで犯すことが、お前の好きってことなのかよ!?」
 問われ、軽率にもこんな行動に出てしまった高橋には返す言葉がない。
 黙り込み、顔を隠すように打たれた頭を押さえて高橋は立ち上がった。
「ほんとに……すみませんでした」
 岬に向けて深く頭を下げ、肩を落として部屋を出て行く高橋を、安堵のような憤りのような、複雑なため息をついて萱島は見送った。