好き、ということ。 -03-


 冷静になって振り返れば、岬は開いた襟元を両手でかき合わせ、蹲るようにソファの上でじっとしている。
 また岬が寒がるだろうかと、開け放していた窓を閉めて萱島が静かに近づくと、その肩はほんの微かに震えていた。
「…大丈夫か?」
 労わるようにそっと肩に触れると、岬は過敏に全身を硬直させ、弾かれたように萱島を振り仰いだ。しかし萱島の姿を認めても、その目は明らかな怯えを収めない。
「まだなんもされてねぇだろ?」
 そんな心配の仕方もどうかと自分で思いながらそれでも問えば、岬は肩を緊張させたまま、ぐっと俯いた。
「……って…」
 小さすぎる声に、あ? と萱島が聞き返すと、岬はぎゅっと目をつぶり、勢いのままに叫んだ。
「あんただって、俺にしたいと思ってることは高橋と同じだろ!?」
 初めて見る岬の剣幕に、まず驚いて萱島は体を引いた。
「…守谷、」
「親身になるふりして俺のこと懐柔して近づいて、落とすとか何とか、結局目的はやれりゃそれでいいんじゃないのかよ!!」
 一息に叫んで、慣れない激昂に岬自身が酷く疲れて息をつく。
 ――そんなことを、いつも思ってきたわけではない。むしろ、今の今まで考えたこともなかった。
 けれど、力に屈する恐怖が。
 そして、呼吸を奪われたことで浮上した記憶が。
 同時に肌に触って、問いを落とした。

 自分は、自分を想う者にとってすら、躰にしか価値がない、、、、、んじゃないのか?

 やれればそれでいいのだと、肯定されれば自分が傷つくくせに、否定してほしくて自虐的な問いを投げる。
 誰よりも、自分の存在を認められたがっているはずの岬にそんな言葉を吐かせることが酷くつらくて、触れない距離に萱島はしゃがみ、岬と視線を合わせた。
 そして、静かに問いを返す。
「俺が、そんなことしたか?」
 眉を顰めもしない、どこまでもただ整った表情と向き合って、岬はぎくりと体を震わせた。
「俺が今まで、そんなこと一度でも言ったかよ。なあ」
 萱島はいつでも不機嫌そうな顔をして、口を開けば何を言うにも粗雑な口調で、怒っていないときなんかないんじゃないかという態度で人と接する。だから初対面では大抵の人が萱島を “怖い人” と見るし、美貌に見惚れる前に萎縮してしまうのだ。
 けれど多少なりとも萱島と深く接する機会を持ったことのある者ならば、仏頂面でぶっきらぼうに話す萱島が、本当に不機嫌なわけではないことにすぐに気づく。口調ほどには萱島の言葉には棘はなく、相手を拒絶するようなことを萱島は言わない。
 そして岬は、そんな萱島の内面の温かみを、最もよく知る人間のはずだった。
 だからいっそ穏やかな表情をした萱島を前にして、岬にはわかる。
 萱島を、初めて本気で怒らせたのだと。
「…でも、俺がそのつもりじゃなくても、お前は今までそう思ってきたんだもんな」
 ふ、と視線を逸らして、萱島が小さく笑う。
「お前にとって俺は、勢いで押し倒すようなやりたい盛りの思春期のガキと同列だったわけだ」
「先生、」
 弁解しようと岬が伸ばした手を、するりと振り解いて萱島は立ち上がる。
「もういいよ」
 短くそう言い置いて、萱島は岬に背を向けた。
 それが萱島の、初めて岬に向けた拒絶で。
 追いかけることはおろか、ソファから立ち上がることもできずにいる岬を残し、萱島は相談室を出て行った。

 いつも、萱島はただ、優しくて。
 自分には関係のない、岬の負った相談話も、親身になって聞いてくれて。
 けれど甘いばかりではなく、岬が考えを誤れば、きちんと正して導いてくれた。
 どれだけ岬が慰められても、自分には何もできていないと思ってしまうのは、萱島に頼りすぎているという自覚があることも大きい。自分の力では何一つこなせていないような、そんな自覚を持つほどに岬は萱島を頼り切っていた。
 たとえ、何人もの生徒が岬の言葉に救われていたとしても。それは、その言葉を発する岬自身が、萱島という存在に支えられていたからで。
 萱島がいなければ、岬には生徒の声を聞き入れるほどの余裕など持てなかった。松野の時だって、成田の時だって、話を聞いてもらうことを必要としていたのは、生徒よりも岬の方だった。
 些細なことで沈着していく胸の澱を、吸い出して痞えを解いてくれたのはいつもいつも萱島で。
 けれどそうしてずっと傍らで岬を見守りながら、萱島は何も強いてはこなかった。
 萱島が岬を想う気持ちを、高橋と同じもののように言ってしまったことを、深く悔やんで岬の胸が暗く凝る。
「なんか……間違った」
 力づくで、とか。躰だけ、とか。
 萱島の言う 『好き』 ということは、そんなものでは決してなかったと、少し考えればすぐにわかるはずだったのに。
 血迷ったたった一言で、一体自分は何を失った?
「僕が、なんか間違った」
 呆然と、その事実を自分に確かめて。
 まだ閉じられない襟元を両手で掴んで、岬は泣いた。


<END>