好き、ということ。 -01-


 年が明けると、緑翠高校の校舎は少し寂しくなる。
 3年生の生徒たちはセンター試験や二次試験に備え、自由登校となるためほとんど学校には出てこない。早々に私立大学や専門学校に進学を決めた生徒についても扱いは同じなため、そちらの方はよっぽど顔も出さない。きっとバイトや自動車の免許取得に精を出していることだろう。
 そんな人口密度の低さにもそろそろ違和感を覚えなくなってきた2月、岬は心理相談室で帰り支度をしながら窓辺を振り返った。
「先生、まだ帰らないんですか?」
 岬が寒がるのでかなり細く開けた窓に張り付くようにして煙草を吸っていた萱島が、呼びかけに気づいて振り向く。そして岬に向かってちょいちょいと手招きをし、窓辺に呼んだ。
「雪。ちっと積もってんぞ」
 曇った窓をてのひらで拭うと、中庭の地面にも常緑の針葉樹の上にも、うっすらと白いものが降り積もっていた。
「ほんとだ。今もちょっと降ってますね。まだ積もるのかな」
「あんまり降られてもかなわんぞ、車流れりゃしねぇし。天気が悪いと親が生徒車で送り迎えしやがるだろ、それでやたら学校周りは混むしな。高校の登下校に送迎つきって、今の親はほんとに何考えてんだかな」
 若ぇんだから歩かせろ、とぶつぶつ言う萱島に岬は小さく笑う。
「そんなこと言って、僕のこと駅まで送ってくれちゃう先生も似たようなもんですよー?」
 からかうように小首を傾げて見上げれば、行儀悪く窓の桟で煙草の火を消しながら萱島は肩を竦めた。
「お前はいいんじゃねぇの、若くないんだから」
「ひっど!」
 僕まだ23にもなってないのに、とむくれる岬に歯を見せて笑って、萱島は岬の頭に手を載せて顔を覗き込む。
「嘘だよ。かわいい子は大事にしたいんだ、な」
 だから機嫌を直せと、萱島は微笑むけれど。
 頭を撫でられて微笑みかけられた岬は、一瞬にして顔を真っ赤にして凍りついてしまった。

 成田健二の一件以来。
 というよりも、その時の抱擁、以来。
 岬は自分でも過剰ではないかと思うほど、萱島のことを意識するようになっていた。
 普段どおりに萱島が、仏頂面で軽口を叩いている間はいいのだけど。さっきまでそんな顔をしていたかと思えば不意にその表情を綻ばせる、その瞬間にやたら岬の心臓は高速で脈を打ちたがるのだ。
 そんな自分に、おかしいという自覚はある。けれどそれを自覚するたびに岬の頭にはあの抱擁が蘇って、脳裏のどこかで鳴る警鐘の音すらかき消すほどの爆音を立てて自爆するのである。
(僕……あの時)
 いやじゃ、なかった。いやだとは、思わなかった。
 落ちた肩を、抱いて。ちゃんとできていると、言葉をくれて。お前の悲しさが、自分のつらさになるのだと。存在を、認めてくれたひと。
 頬に触れた指先の熱にも、ゆるく近づいた吐息の意味にも、たぶん岬は、あの時ちゃんと気づいていた。
 だから、目を閉じた。
 内に触れる存在を、受け入れてもいいと、思ったから。

 ――――でも。
 その場は春樹の乱入で事無きを得て、その後冷静になってみれば、あんな 『過ち』 を犯さずに済んでよかったと、心底から安堵する自分がいる。
 もしもあのキスを受け入れていたら、を想像することは難しいけれど、少なくともそのことを直接の理由として短絡的に “お付き合い” することにはならなかったはずだ。それはわかる。今も岬の中には、萱島に対して恋愛感情云々といったものは存在しないからだ。
 信頼は寄せている。それも、本人が知ったら迷惑に思うかもしれないほど、大きな信頼を。
 でも、だからこそ。弱ったときの単なる気の迷いのせいで、萱島とどう接すればいいのかを見失うような、そんな過ちを犯さずに済んでよかったと。
 その安堵をもう一度胸に返して岬が隣を見上げれば、岬の思いを知っているのかいないのか、萱島は大あくびに美貌を崩して思いっきり伸びをしていた。
「さーてとー。そろそろ帰るか。保健室閉めたら表に車回してくるわ」
「あ、はい、お願いします」
 のんびりと部屋を出て行こうとする萱島の後姿を、岬はもうすっかりこの相談室に馴染んだ光景として見送る。
 けれど萱島が開けようとしたドアは、寸前で軽くノックされ、軽やかな音を立てて開かれた。
「あ。先生、もう帰るとこですか?」
 顔を覗かせたのは、秋口からずっと受験関係のことで相談に来ていた、3年生の男子生徒だった。
「高橋くん。どうしたの、久しぶりだね」
 年末から相談室には来ていなかった生徒の久々の来訪に、少し驚きながら岬は笑って部屋へ招き入れた。
 高橋の相談は、一応年末までで終結していた。どこの大学を受けるのかを迷い、さらに合格するかどうかの不安に悩んでいた高橋だったが、面談を重ね、自分の成績を岬とともに冷静に分析していくうちに自信を見出し、前向きに受験に臨むようになっていたはずだ。
 それが急に、二次試験を目前にした今になって再び訪れるとは、何か問題でもあったのだろうか。
 心配になった岬は、今日は彼の話を聞いてあげることにして、ドアのところでどうするのかと視線を寄越す萱島を振り返った。
「すみません、やっぱり僕少し残ることにします」
 申し訳なさそうに会釈する岬に、萱島はあそう、とだけ言って保健室へ戻っていった。
「先生…いつも萱島と一緒に帰ってるんですか?」
 どこか複雑そうな表情をした高橋に訊かれ、苦笑しながら岬がてのひらを振る。
「いつもじゃないよ。今日はちょっと僕が駅前に用があるって言ったから、送ってもらおうかって話になっただけ」
 そんなことより、と岬はいつも通り、戸棚からカップを取り出し、帰る前にとコンセントを抜いていた電気ポットの湯の温度を確かめた。
「お茶入れるから、座ってて」
 ソファに促す岬に、高橋がありがとうございます、と頷く。
 その高橋が後ろ手に、二人きりになった相談室のドアに鍵をかける音を、茶器に湯を注ぐ水音に紛らせて岬は聞き落とした。