その日の朝礼は、いつもより少し遅れて始まった。
一階の相談室から上がってきた岬の隣には、同じく保健室から上がってきた萱島が眠たそうにあくびをしている。
そこへ現れた教頭は、朝の挨拶の後、神妙な面持ちで告げた。
「本日、2年生の生徒から退学者が出ました」
その知らせに、一斉に室内がどよめく。
前々からあったという話ではない。おそらく急に決まったことなのだろうが、しかし何の議論もなく唐突に決まるような話でもないはずだ。
「お静かに」
教頭は両手を軽く広げ、特に2年生の担任団を中心に広がる動揺を鎮めようとする。
「学校側からの強制ではありません。これは自主退学です。家庭の事情によるものなんです」
教頭の張った声にようやく室内が静まり、2年団の教員から質問が上がる。退学した生徒は誰なのか、と。
俄かに岬の体に震えが走った。
「……おい?」
不審げに、萱島が岬の顔を覗き込む。岬の視線は床に縫い付けられたまま離れない。
岬には予感があった。2年生の中から退学者が出たという、その話を聞いたときから。
「10組の、成田健二くんです」
答える教頭の声に、ぎゅっと瞼を閉じる。その名を聞くことはすなわち、自分が 『また何の役にも立てなかったのだ』 ということを突きつけられるに等しい。
また来てもいいかと、少年は頼ってくれて、それに笑みを返したのに。健二が春樹の傍に在るために、力を尽くすと約したのに。
それにはにかんだ健二の笑顔さえ自分には守れないのかと、立っていた膝が萎えて思わず萱島の袖に縋りそうになる。
「大丈夫か? 顔色悪いぞ」
心配げな萱島の声の向こうに、ひそめられた声が重なる。
――ああ、成田ってあいつか。
――出席日数も足りなかったんじゃないの。
――街で何してるかわかんない子だもの。
――来たくもない学校なら、退学した方が本人にとっても良かったんじゃないの。
耳に届く先輩教師たちの声に、岬の喉は叫びを詰まらせた。
勝手なことを言うな。彼は学校に来たくなかったわけじゃない。学校から足を遠のかせてしまったのは我々大人の責任で、引き戻してやるのが教師の役目ではなかったのか。本人にとっても良かっただなんて、そんな詭弁で責任転嫁するなんて。そんなのは。そんなのは絶対に、間違っている。
けれど言葉はくちびるから離れてはいかない。
岬には誰も責められない。何もしてやれなかったのは他でもない、自分自身だ。
「この件に関して、詳しい報告は本日放課後の臨時職員会議にて行います。それでは各部連絡を、生徒指導部からお願いします」
話は一段落し、いつも通りの朝礼が進んでゆく。そしてチャイムの音とともに教員たちが席を立ち、それぞれの教室へ向かう。
その流れに乗って萱島と肩を並べて相談室へ降りようとした岬に、教頭の呼び止める声が掛かった。
「守谷先生」
呼ばれたのは岬だけなのに、隣の萱島も当然のように足を止める。
「今日1限は、授業や面談が入っていますか?」
「いえ…」
「では少し、お話をしませんか」
成田くんのことで、と教頭は声をひそめて寂しげに笑んだ。
教頭は空室だった進路指導室の鍵を開け、二人を招き入れた。どこかぼんやりとした様子の岬を、触れない距離で萱島が支えているように、教頭には見える。
「萱島先生は、保健室の方は大丈夫ですか?」
問うた教頭に、椅子に腰掛けながら萱島はぴくりと眉を上げた。
「俺がいるとなんかまずいですか」
「いいえ。そんなことはないです。むしろ一緒に聞いていただいた方がいいかもしれませんね」
守谷先生は少し、落ち込みやすいところがあるから。と、以前の松野の一件を知っている教頭は、岬には聞こえない声で囁いた。
「守谷先生」
「あ、はい」
呼びかけられて、机を挟んで教頭と向き合った岬は顔を上げる。
「成田くん本人と、話をされたことがあるそうですね」
けれど上げられた視線は、すぐに俯けられてしまう。
「…話したことがあるとはいっても…退学のことなんか聞いてないし、それに――」
何より、自分は彼の、何の力にもなれなかった。その事実だけが暗く、岬の胸を覆う。
そんな岬の落ち込みを静かに見つめて、教頭は机の上で指を組んだ。
「成田くんはね。フランスへ行くんだそうですよ」
「…フランス?」
「パリで、お母さんと一緒に暮らすことになったそうです」
おかあさん、と岬は口の中で繰り返す。まるでその言葉の意味を探しているかのようだ、と萱島は思った。
「今回の帰国で、母親として息子の生活が心配になったんでしょう。学校も向こうで通わせることにするとおっしゃっていました」
「どうして…? いまさら。これまでずっと放任してきたのに?」
どうしても責める口調になる自分の喉元を、無意識に岬はきつく絞めつける。
その手の親指が頚動脈に強く食い込んでいるのを見咎めて、横から萱島がその手を取って外させた。その萱島に教頭はありがとうと目配せて、ふっと視線を落とす。
「…家政婦を雇っていたことで、ある程度息子の日本での生活には安心していたのでしょうが。でも…その影で息子が薬物に手を染めていたとなれば、話は別です」
「! 先生、知って…?」
「いえ。これも親御さんから退学の知らせを受けたときにお聞きしたことです。ですが、退学する生徒のことですから、このことは他には伝えていませんし、学校として事実確認や調査をすることも考えていません」
将来のある、しかも更生する気のある若い芽を、わざわざ暴き立てて摘んでしまうこともないでしょう。そう言って教頭は浅く息をつく。
そうやって穏便に事を済ませようとする姿勢が正しいのかどうかは岬にはわからない。臭いものには蓋、という日本的閉鎖的教育現場の旧態依然とした悪い体質だと非難することもできるけれど、健二個人の立場からしても、公表されずに済めばそれはその方がいいには違いないのだから、教頭の優しい配慮とも取れる。
だけど、と岬はくちびるを噛んだ。
「母親は、都合が悪くなったから手元に置いて隠そうとしてるだけなんじゃないですか。子どもが薬中なんてことが公になったら、父親のことも世間に知れてしまうかもしれない。そうすれば父親の立場も危うくなる。そうしたら援助を受けられなくなる。だから成田くんを」
「守谷」
言い募ろうとした岬を、硬い萱島の声が遮った。
「穿ちすぎだ。…冷静に考えてみろ。本気でそう思ってる奴が、わざわざ息子が薬に手ぇ出してましたなんて自己申告するか」
萱島の声に、岬は呆然とする。その向かいで、教頭は昨日の母親からの電話を耳に返した。
――すみませんでした。ご迷惑をおかけしました。知らなかったんです、私の目の届かないところで、息子の生活がそんなに乱れていたなんて――勝手なのはわかっています。悪い母親だったのもわかっています。でも、子どものことは全て私の責任ですから。一緒に、やり直したいんです――家族の関係を。
「普通の母親はみんな…本気で子どものことを考えてるものなんですか…?」
誰にともなく、岬は問いを投げる。
「…私は教育者ですから、普通、なんて言葉は使いたくありませんが」
俯く岬に、少し目を伏せて、教頭が微笑みかけた。
「世の中の母親は、それぞれに事情を抱えて、色々な考えで子どもと接しているのだと思います。その中で間違う人もいるでしょう。ですが、その間違いに気づき、正そうと努力する人もいる。そういうことだと思います」
少なくとも泣きながらやり直したいと語った健二の母親は後者に入るのだろうと、教頭は岬に教えた。
それならば健二は、春樹の傍に在りたいと願いながらも、母親と一緒にいることで幸せになれるのだろうか。
…わからないと、岬は肩を落とす。
その岬を、隣で萱島は静かに見つめていた。