縋るもの -06-


 相談室を訪れた成田健二は、意外なほど無口な少年だった。春樹の受けていた仕打ちのこと、そして薬物にも手を出している事実を考えると、岬にとって健二はもっと軽率な、悪さ自慢でもしそうな、そんなイメージだったのだが。
「……何か、言いたいことをたくさん我慢してるみたいな顔だね」
 沈黙したまま俯き、自分のてのひらの中をただ見つめるばかりの健二に、岬は静かに語りかける。
「たくさん、後悔してる」
 岬の言葉に、健二は一度顔を上げ、頷くともなく再び俯いた。
「きみの本意じゃなかったかもしれないけど、河瀬くんから先に話は聞いてる」
「……」
「河瀬くんから聞いたことも、きみから聞くことも、誰かに言いつけたりは絶対にしないから」
「……うん」
 小さく、けれどはっきりと頷いた健二に、岬は笑みを見せる。
「…先生」
 その笑みに警戒を解いた健二は、まず一言目にこう呟いた。
「俺、ずっと昔から春樹が好きだったんだ」
 その告白は岬にとって、ちっとも違和感を覚えるようなものではなかった。
「そういうの、先生には理解できない?」
 だから、そう問われて岬は、「そんなことないよ」と即座に答えることができた。しかしその躊躇いのなさを逆に訝りながら、また健二は少し視線を落とす。
「…春樹とは、家が近所で」
「うん」
「俺の母親と春樹の母親がけっこう仲良かったから、春樹の家族だけは、うちの事情を知ってた」
 そして健二はぽつりと、一人の男の名を挙げた。
「…って、先生知ってる?」
 岬は頷く。
「……それ、俺の父親」
 よほどの世間知らずでもなければ知らないと言えるはずもない、それは著名な政治家だった。
「おふくろは、そいつの本妻公認の愛人。俺は認知はされてないけど、口止めにあいつら夫婦から金もらってる。おふくろも金もらってパリで生活してて、そっちにもパトロンがいる。俺は日本で、ほぼ一人暮らし」
 お手伝いみたいな人は時々来るけど、愛想が悪くて嫌いなんだ、と健二はもらす。
 そして母親のことを、馬鹿、と罵る。思春期の息子野放しにして、金ばっか与えてたらどーなるかもわかんないなんて、よっぽど思慮が浅いんだよ、と。
「薬やるようになったのは、ほんとに成り行き。一人で暇だったから暇仲間とつるむようになって、金があったから買えるもん買ったんだ。オトナの言うところの『好奇心』てのもあったし」
「…好奇心」
「もー、ほんとに何もかも思い通りになんなかった」
 ぐっと眉間に力を込めて、健二は窓の外を見やった。
「昔なじみのダチと公立高校でのんびりやろうと思ってたのに、変なとこでばっかり親父面して俺の進路に口出ししてきやがってさ。おふくろもなんだかんだであいつの言いなりだし。一緒の高校に入ってくれた『親友』は、いつまで経っても俺の気持ちなんか見て見ぬふりだ」
 全部どうにもならなかった。だから、一つくらいどうにかしてやろうと思った、と健二は言う。
「…だから、河瀬くんをレイプした?」
 少しの非難を込めて訊くと、薄く笑って、健二は悔いるように息をついた。
「薬やって。何でもできるような気になって。何かしようって思って、一番したいことがソレだった」
 あまりに刹那的な自分の行動に、健二は思わず苦笑する。
「マトモな頭で考えられるときは、俺だってレイプとかありえないと思うよ。はるが誰を好きでも仕方ない、なのにその気持ちも信頼も全部全部、踏み躙って犯しまくって」
 でも、と健二は息を継ぐ。
「最初から何かおかしかった」
 思い返すような遠い視線の先にある時間は、悔いてももう戻らない。
「何しても大して抵抗もしないあいつの中には、たぶん最初のときから俺に対する責任感しかなくて」
 肉欲は満たせても砂を抱くような思いがしたことを、健二は忘れていなかった。
「抱いた分だけ、やっぱりはるが俺のものになることなんかないんだって思い知って、でも征服欲ばっかり大きくなってって。俺たち一緒になって、どんどん狂ってった」
 レイプしたいほど好きになるのも、レイプに耐えられるほどの責任を感じるのも、どっちも尋常なことじゃないよな、と健二は場違いに乾いた笑いを浮かべた。痛々しい笑みに、岬の表情もこわばる。
 正しいか正しくないかで言えば、きっと最初から、何から何まで正しくない。けれどそんなことを議論しても、何も訂正されはしない。
 それでも、と岬は、何が言えるかを考えた。
「傍にいるだけじゃ、ダメなの?」
 岬の問いに、健二が視線を寄越す。
「好きなら…大事にしたいとかは思わないの? 相手の意に染まないことはなしにして、傍にいられたんじゃダメなの?」
 重ねて問えばすぐに、健二は皮肉に口元を歪めた。
「幼稚な考えだよ」
 そう言下に突っぱねて、それから、ソレを実践するのは難しすぎる、と付け加えた。
「男同士なんだ。男女の純愛みたいなわけにはいかない。一線の手前じゃ友情どまりだ。それを越えて行かなきゃ、恋愛にはならない」
 健二は春樹と友人でいたかったわけではない。恋愛をしたかったのだ。
「…好きなのに、相手に何も求めずに傍にいるなんて、つらすぎる。俺はそこまで割り切れないし、そんなに大人じゃない。…けど」
 もう、春樹の心も身体も、傷つけたくはないのだと、もう一つ確かに存在する想いを健二は口にした。
「先生。はるが泣くんだ。俺を助けたいって、一緒に頑張ろうって――何やられたって泣かなかったくせに」
 それに絆されたわけではない。健二はその涙の重さに気づいたのだ。
「好きじゃなくても、はるがこんなに俺を想ってくれてる。それに対して俺が返せることは、そう多くない。はるを……諦めて。ちゃんと、立ち直った姿を見せてやることぐらいしかないって、思う」
 ソレ、何か間違ってる? と健二が問う。
 少し考えて岬は、間違ってないと思うよ、と頷いた。
「想い続けるより諦めることの方がきみにとってくるしくないなら、それでいいと思う」
 ただ、それほどまでに好きになった人を諦めるということにどれほどの苦痛が伴うのかは、岬には計り知れない。それでも相手のためにそうすることを選ぶと言うなら、岬に言えることは何もなかった。
「きみが河瀬くんの傍にいられるように、僕にできることはするから」
 この時は本気でそのつもりで、不用意に岬は笑いかけてしまう。
「だから、きみは絶対に薬を断とう。河瀬くんもそれを願ってる」
 ね、と念を押せば、健二は慎重に顎を引く。そして初めて岬に、少年らしい笑みを見せた。
 不意に、それまで時間の流れを感じさせなかった室内に、休憩時間の終わりを知らせるチャイムが響いた。それを区切りに、健二が席を立つ。
「…また、来てもいい? 話を聞いてもらいたくなるかもしれないから」
 申し出を、岬は快く承諾する。
「もちろんだよ。毎週でもおいで。いつでも聞くから」
 そう約束して、相談室を出て行く健二の背中を見送った。

 ――けれど、その約束が果たされることのないものとなってしまうのは、ほんの2日後のことだった。