縋るもの -05-


 ふあ、とあくびをした途端、ぽっかりと開いた口の中に突然人差し指を差し入れられた。
「ふがっ!?」
「いでっ!」
 慌ててついつい反射的に、口を閉じようとして加減もなくその指を噛んでしまい、歯形のついた指を押さえて萱島がうめいた。
「お前なぁ、思っきし噛むなよ!」
「んなこと言って、悪戯する先生が悪いんでしょ!?」
 いつものように萱島のかけてくるちょっかいにいちいち乗って、他人の指を噛んでしまった心地の悪さに顔をしかめて岬が喚く。
 こんな風景が相談室での日常になっていることに、気づかないほど岬はその中にどっぷり慣れきってしまっていた。
「だってお前がぼーっとして溜め息ばっかついて、挙句に就業時間中だってのに堂々とあくびなんかしやがるからよ」
「む…それは悪かったですけど」
 勤務中に大あくび、というのはさすがに指摘されると痛いところで、丁寧に指をそろえて岬は口を塞ぐ。もちろん萱島はそんなことを注意したいのではなく、相談室に遊びに来たのに一向にかまってくれない岬の気を引きたかっただけなのだが。
「なーんか心ここにあらずだな。どーかしたか」
 言いながら萱島は、勝手に持ち込んだ自分専用のカップを棚から取り出し、勝手に電気ポットのお湯でインスタントのコーヒーを煎れ始める。それを見て条件反射のように岬はティースプーンを取り出し、前回萱島が飲んだときの残りのスティックシュガーと一緒に手渡した。
 萱島のコーヒーには、砂糖半分、ミルクなし。いつの間にか覚えてしまった。
「いえ、別に…」
「風邪でもひいたか? 最近朝晩冷えるしな」
 ためらいもなく額に伸びてくる掌に、心地よさすら感じながら身を任せる。
「んー。熱はないな」
「風邪なんかひいてませんってば」
「じゃあ何だ、例によって悩み事か」
 例によって、と言われるほどいつも悩んでいるだろうかと岬は口を尖らせたが、確かにそう言われて仕方ない程度には萱島を頼りきりにしている自分を自覚して、両手で頬杖をついて本日何度目かのため息をついた。
「悩み事っていうか。…ちょっと厄介な相談事を持ち込まれて」
「こないだの2年生か」
 間髪いれずに言い当てられて、岬は驚いて顔を上げる。
「立ち聞きしてたんですか!?」
 それに、萱島は不機嫌そうに眉をしかめた。
「するかバカ。んなもん生徒の顔見りゃわかる、なんか変なもん抱えてそうなツラしてたじゃねぇか」
「…そんな顔してたかなぁ」
 思い出そうとするが、浮かぶのは何を思うのか他人に悟らせることのない、曖昧でぼんやりとした春樹の無表情だけだった。
「で、あいつが何だって?」
 一見しただけで彼が抱えるものの重さを見抜いた萱島の慧眼にますます信頼を深めながらも、その問いに岬は即座には答えられない。
「……それは、教えられないです」
「? なんだ、誰にも言わないとでも約束したか」
「はい」
「そうか」
 けれどしつこく問うてくるかと思われた萱島は、あっさりと手を引いた。
「なら言うな。お前がせっかく築いたラポールだもんな」
 そう言って優しく笑まれると、4月からこれまでの相談活動を認められたような気がして、嬉しさにふわりと心が軽くなったような気がする。
 しかし同時に、一人で立てるだろうと手を離された心細さについ弱くなって、岬は萱島の白衣の袖に手を伸ばしてしまった。
「あの…萱島先生……」
 いざとなると手を離す心構えができていないのは岬の方で、岬の肩には荷のかちすぎる話を聞いてもらおうかと思った、まさにその瞬間、ノックもなくいきなり相談室のドアが無遠慮に開けられた。
「あ」
 開かれたドアのところには、今まさに話題に上ろうとしていた河瀬春樹、そしてその後ろには成田健二の姿があった。その二人の生徒の視線に晒されたまま、近すぎる距離で岬は萱島に手を差し伸べたままで固まった。
「……また、お邪魔だったみたいですね……」
 見ていられないというように、春樹はこめかみを押さえて岬と萱島から視線を外す。その後ろの健二は、親しげな男性教師2名の姿にやや当惑気味に、しかし興味津々の視線を注いでいる。
「じゃっ、邪魔なんかじゃないんだってばっ!!」
 慌てて離れる岬に、この態度では余計に誤解を招くだろうな、と思いつつ黙って萱島は苦笑した。
「んじゃ俺また保健室戻ってるわ」
 クスクスと笑いながら、コーヒーカップを持ったまま相談室を出ようとする萱島を、春樹が袖を掴んで呼び止めた。
「ちょっと待って、俺も行く」
 そうして萱島を見上げる春樹の視線を、萱島が少し迷惑そうな表情で受け取ったのが、岬の目にも見て取れた。
「じゃあ健二、守谷先生に話聞いてもらってこいな」
 そうして室内へ促す春樹に、健二は不安そうに眉を寄せる。
「はるは?」
「…俺がいたら話しにくいこともあるだろ。俺は席外すから」
 そんなやり取りを聞きながら、岬は健二に向けて笑いかけた。
「大丈夫だよ成田くん、話は河瀬くんからちょっと聞いてるし。取って喰ったりしないから」
 そう言って冗談混じりに両手を広げた岬の元へ健二が歩み出すのを見届けて、春樹と萱島は相談室を出た。
 隣の保健室に戻り、萱島が席につくなり春樹は、またぼんやりとした意図の見えない表情で萱島の顔を覗き込む。
「…先生も大変だね」
 憮然として、萱島はコーヒーをすすって脚を組んだ。
「何がだよ」
「守谷センセ。ストレートなんでしょあの人。先生のこと憎からずは思ってるみたいだけど、まだ気持ちは届いてないよね」
「……」
「それなのに懐かれて、先生かわいそうだね。先生が気があるのわかってて、曖昧な態度取ってる守谷先生のこと、俺、ちょっと酷いと思うよ」
 カチャリと音を立ててカップを置いた萱島に、でもね、と表情を変えないまま春樹が首を傾げて見せる。
「先生だって、守谷先生と似たようなことしてるよね」
 春樹が何を責めようとしているのかを悟って、萱島はいよいよ眉を顰めた。
「……お前、」
「先生は守谷先生のことが好きなんでしょ。だったら、あの人のこと、もう悲しませないであげてくれないかな」
 もどかしく髪を掻いて、萱島は春樹を睨み上げる。
「それは、…違うだろ、俺は関係ない」
「関係ないことはないよ」
 春樹は萱島のきつい視線を受け止めて、小さく笑んで見せた。
「俺はあの人のこと、大事に思ってる。だから、解放してあげて」
 そう告げて、春樹は無邪気にじゃあね、と手まで振って、何事もなかったかのように保健室を出て行く。
「……俺だって、どーすればいいかわかんねんだよ……」
 室内に残された萱島は、やりきれなく呟いて、ライターを弾いた。