縋るもの -04-


 ブルブル、と細かな振動がメールの受信を告げる。夕食後、自室でのんびり休んでいた春樹は、ベッドに寝そべったまま携帯を開いた。
 差出人は、成田健二。また呼び出しか、と半ばうんざりしながらメールを開封すると、少々様子が違う。それは内容のない、空メールだった。
 しかしそれを見た春樹は、いつもの呼び出しの時とは違う意味で慌てて部屋着の上に上着を羽織って、階段を駆け下りた。
「春樹? こんな時間にどこ行くの」
 玄関で靴を履く春樹の背中に、午後九時を過ぎて外出する息子を怪訝に思った母の声がかかる。
「ん、健二んとこ」
「あらそぉ」
 しかし幼稚園の頃から息子の幼馴染として面識の深い母は、むしろ表情を緩ませて玄関まで見送りに出てきた。
「行ってらっしゃい、気をつけてね。あんまり遅くならないのよ」
「うん。行ってきます」
「あ、そうだ」
 今にも玄関を出ようかという息子の袖を、悠長に母が引きとめる。
「今日の夕方、そこの公園の近くで健ちゃんのお母さん見かけたわよ。パリから帰っていらしてるのね」
「え」
 のんびりとした母の声に、春樹には健二からの『SOS』の理由が知れる。
「お母さんによろしくね」
「ん」
 そういうことならばなおさら早く行かねばと、玄関のドアを閉めて春樹は自転車に跨った。
 春樹の家と健二の家とは、共に通った小学校を挟んでちょうど反対の位置にある。歩いても15分程度の距離だから、自転車を使えばすぐに辿り着いた。
 健二の母親がいた時のことを考えて、春樹は門の前で一応インターホンを鳴らす。それから反応がないのを確認してから、開錠されない門を飛び越えて裏口に回った。家の中に人がいる気配はなく、春樹は靴を脱ぎ捨てて足早に二階の健二の自室へ向かった。
「健二?」
 ドアを開けると室内は真っ暗で、その中でベッドに丸くなっていた健二が、音に気づいてゆるゆると頭を上げた。
「はる…?」
 幼い呼び名を弱々しく口にした健二の傍らに駆け寄って、春樹はその体をかき抱いた。遅い成長期の盛りをやっと迎えたばかりの春樹よりも随分柄の大きな健二は、けれど自分より小柄な春樹の背に縋るように両腕を回した。
「はる…」
「おばさん帰ってきたって? 今どっか行ってんの?」
「親父んとこ……葉っぱ、全部取り上げられて…」
「大丈夫? 苦しい? 水持ってこーか?」
「いい…はるが来た」
 全身を小さく震わせた健二は、春樹の胸でやっと呼吸できたかのように深く息をついた。
「はる、寒い」
 すっかり成長して伸びてしまった四肢を縮める健二を、春樹は痛ましく見つめる。
 ――健二だけが悪いのではない。ただ少し、健二は弱かっただけだ。
「健二」
 気づけば当たり前のように健二の手は春樹の服の中に忍び込み、肌に直に触れていた。それを諌めるように強く名を呼ぶと、光の弱い視線が探るように春樹を見上げる。
「…俺、今日心理相談室行ってきた」
「え…?」
「健二のこと、相談に行ったんだ。守谷先生に」
「……お前っ…」
 俄かに胸倉を掴み上げられて、春樹は体を硬くして目をつぶった。その体が、したたかにベッドへ打ち付けられる。
「教師にチクったのかよ!?」
 唐突に激昂する健二を、春樹は静かに見据えた。
「…そうなるかもな」
 あっさりと肯定する春樹に、健二は固めた拳を震わせる。
「…っんだてめぇ、今までおとなしくしてると思ってりゃ、いきなり学校にバラして仕返しか。俺を退学にでも追い込もうってか?」
「そんなつもりじゃない」
「じゃあどんなつもりだ!! 言っとくけどな、俺を恨んで仕返ししたところで、お前が男にマワされて悦ぶ淫乱野郎だって言いふらされて困るのはお前の方なんだからな」
「……別に言いふらしたいならそうすればいいけど」
 春樹を輪姦したということが表沙汰になれば分が悪くなるのは健二の方なのに、それに気づかず気勢を張る愚かさがいっそ不憫で、春樹はそっと息をついた。そして強張った健二の頬に指を伸ばすと、怯んだように健二が肩を震わせる。
 その弱さが切なくて、胸を痛めて春樹は目を細めた。
「…ごめん。全部俺のせいにしていい」
 言われる意味が分からず、健二は馬乗りになった春樹の上でただ惑う。
「だけど、だから、一緒に考えるよ」
 それが精一杯の償いだと、春樹はいつもと同じように、体を差し出した。
「はる…?」
「健二。俺、お前に立ち直ってほしい。今まで黙認してきたけど、やっぱり薬なんかやっちゃだめだ」
 誘うように、春樹は健二の腕に自らの指を絡める。それがどんなに健二を傷つけるか、知っていながらどうにもできない自分に春樹は焦れた。
「たぶん、守谷先生は力になってくれる。健二さえ頑張れば、薬も悪い交友関係もちゃんと絶てるよ。だから」
 春樹の言葉を遮るように、煽られた熱に急かされて健二が春樹の唇を塞ぐ。深まる口づけに喉を反らせ、潤んだ瞳で春樹は健二を見上げた。
「――だから?」
 何もかもを諦めてしまったような目で、健二が言葉の続きを乞う。その先を健二が聞きたいわけがないと分かっていて、春樹はただ必死に言葉を重ねる。
「だから、…健二も、頑張ろう?」
 結局何の解決にもならない、甲斐のない繰言を紡ぐだけの自分に落胆した春樹に、苦笑のような薄い笑いを浮かべ、健二は春樹を抱いた。
 大麻の高揚にただ任せただけではない交わりは、ひたすら春樹の肌に深い情といたわりを刻みつける。
 その情の存在を、はるか昔から、春樹は知っていた。知っていたけれど、知らないふりをしてきた。自分に応えられないことは分かっていた。浅はかな同情など、何の役にも立たないと思っていた。
 けれど、そうして目を背け続けることが、思いもかけないほどに『幼馴染』を傷つけていると、気づいたのはいつだっただろうか。
 …それはたぶん、健二の性の衝動が初めて自分に向けられた瞬間。その頃には既に、健二は禁忌に手をつけていた。
 力で押し込まれ、戸惑いはもちろんあったが、これはまともに健二と向き合わなかった自分の咎かと、ただ無抵抗に健二を受け入れることを春樹は選んだ。その時はまだ、それで健二の気が済むならと思っていたけれど。
 逆にそうすることが、さらに健二の傷を深めていたのだと、今なら分かる。

 ――じゃあ、どうすればよかった?

 薄い胸を後悔で満たして、優しい腕の中で春樹は泣いた。