縋るもの -03-


 そうかそうか、と口の中で小さく呟いた春樹は、小さく息をついて椅子を立った。
「じゃ、いいです」
 そして呆気ないほどの迷いのなさで相談室を出て行こうとする。
「ちょっ、と待って!」
 それを、春樹のペースに全くついていけない岬が、混乱したままわけもわからず引き止めた。
「あのさ、話してみなきゃわかんなくない?」
 自分から相談があると言って来室してきたのに、一方的に助けの手は要らないと切られるのも初めてで、岬はなんとか自分の存在意義を主張しようと、ぼんやりと見返す春樹に笑みを向けた。
「何か悩みがあるんでしょ、話してみるだけでも意味はあるかもしれないじゃない。力になれるか分からないけど、聞くだけなら僕にもできるよ?」
 100%の善意を見せた岬に、春樹は納得したのかしていないのか、小首を傾げる仕種を見せて、再び椅子に座った。
「…でもね、ひょっとしたら先生、俺の話聞いたら気分悪くなっちゃうかもしれないと思うのね」
「それもわからないじゃない、だからまずは話してみてよ」
 ね、と必死に笑いかけられて、春樹もやや俯き気味に頷いた。
 それに安心して、岬はいつものように二人分の紅茶を入れ、一方を春樹に差し出すようにデスクに置いた。春樹はそのカップを両手に包むようにする。
「…先生、男同士がどーやってやるか知ってる?」
 その問いかけに、岬は口に含んだ紅茶を噴出しそうになった。
「!? …や、やるって、何を」
「セックス」
 そして今度こそ手にしたカップを取り落としそうになったが、しかし以前の石川佳織の妊娠騒動を思い起こし、最近の高校生の性環境は変わってきているのだろうと納得するより他になかった。
「…知識としては知ってるけど」
「経験がないのは分かってるよ、先生ストレートなんでしょ」
 さらりと言われ、そこは否定するところではないので岬は黙って頷いた。
「でもまぁ、やり方知ってるなら説明しなくていいや、一応お昼時だしね」
 確かにこの後昼食を摂る予定の岬にとって、聞きたい説明ではなかった。
「でね。俺、実は助けたい奴がいるんだ」
 紅茶を一口すすって、それまでどこに真意があるのか分からない薄ぼんやりとした表情をしていた春樹が、深刻気に眉を寄せた。
「…先生、これからする話、誰にも言わないって約束してくれる?」
 真摯な願いに、一瞬岬は驚いて、けれど深く頷いた。
「もちろんだよ。約束する」
 こちらも面を正してそう誓うと、春樹は真剣な面持ちのまま、少し安心したように雰囲気を和らげた。
「……助けたい奴ってのは、俺の幼馴染。2年4組の、成田健二」
 うんうん、と頷きで先を促しながら、岬は調書に書き付けてゆく。
「俺いっつも、そいつにレイプされたりとか、そいつの連れにマワされたりとかしてんのね」
「いっつも!?」
 思わず岬は、握っていたボールペンをへし折らんばかりに、調書に無意味な直線を走らせた。しかし岬を驚かせた当の本人は、驚かれることは承知していたかのように、平然と頷く。
「うん。週に1回か2回のペースで」
「それって犯罪だよ、わかってる!? 警察に駆け込んでもいいんだよ!?」
「うん、わかってる」
 岬にしてみれば信じがたい仕打ちを受けてなお平静に事情を打ち明ける春樹に、岬は戸惑いながら、訊きづらく訊いた。
「…そーゆーのが好きとか…?」
 性的な嗜好は個人の自由だから干渉すまいと遠慮がちに問う岬を、春樹は可笑しそうに笑い飛ばした。
「まっさか! 行為としてはけっこうエグイよ、好きでやってるわけじゃない。けど」
 そして春樹は、何かあたたかいものを見つめるように、目を伏せて微笑んだ。
「大事。すごく大事な奴なんだ」
 その眼差しをどこかで見た気がして、ああ、と岬は思った。
 こんな目で、いつも萱島は、自分を包んでいてくれた。
 それに気づいて、岬は春樹が『大事』だと言う、その意味が分かった気がした。
「河瀬くんは…成田くんが好きなの?」
 けれどそう問うと、春樹は首を横に振る。
「好き、とはちょっと違う。レンアイとして好きな人はね、また別にいるの俺。男のヒトだけどね」
「あ…、そうなんだ」
「健二は、なんつーか…幼馴染だしね、小さい頃からずっと一緒で。ちょっと自分と区別がつかなくなってるとこがあるかもしんない。ある意味、レンアイの『好き』以上のもんがあるかも」
 はは、と照れたように笑う春樹の表情に、ようやく岬は、高校2年生らしい顔を見たような気がした。
「そうか…大事なのか。だけど河瀬くん、いくら大事な人でも、やっていいことと悪いことがあるでしょ? さっきも言ったけど、レイプとか、犯罪行為だし」
「うん。でもそれも、健二が悪いんじゃなくて、」
 言いかけて、春樹は言葉に詰まって俯く。
「…健二の周りの…大人とか。友達とか。俺も、もちろん悪いんだけど」
「きみも?」
「……全部知ってて何もできない俺が一番悪いのかもしれなくて」
「…うん」
「それにね、健二も常にそんなダメな奴なわけじゃないんだ。でも俺は、弱ってく健二が縋るもの探すのを止めることができなかった」
 それが自分の非だと、悔いて春樹は唇を噛んだ。
「先生。今まで俺、健二が弱って俺に縋ってくる時、受け入れるしかできなかった。だけどそうやって放ってたら、多分これから健二、もっと深みにはまって手の施しようがなくなっちゃうと思う。そうなる前に俺、健二のこと助けたい」
 切に願う声は岬に届いて、岬は強く頷いた。
「僕にとっても大事な生徒だよ。成田くんのこと、ちゃんと助けよう。だからまずは、成田くんが置かれてる状況について教えてくれる?」
 積極的に協力する姿勢を見せた岬に、春樹はようやく、『胡散臭い心理相談員』に信頼の笑みを向けた。


 それから春樹は、昼休憩が終わるまで、成田健二についての情報を岬に与えた。
 春樹の情報によると、成田健二は表向きはシングルマザーの母親に女手一つで育てられたということになっているが、実際は某有名代議士の隠し子で、生活は裕福だが家庭環境は複雑らしかった。そうした中で人格を歪められながらも、高校に入るまでは、春樹をはじめとする周囲の友人に恵まれ、真っ当に生きてきた健二。しかし周りが皆公立の高校に進む中、健二は半ば強制的に私立の高校に進学させられた。春樹だけは健二の傍に居るために同じ高校へ進んだが、健二が深夜の町で知り合った非行少年たちとつるみ始めるのを止めることはできなかったのだそうだ。
 そして、その健二が最近になって手を染めたのが、大麻を主とする薬物。しかも、まとまった金を持つ健二が、売人と友人との仲介役まで務めているという。
「薬を使って、高揚してる時はやたら高圧的に俺を犯したがる。だけど、薬が切れると手のつけようがないくらい沈んで、甘えるみたいに俺に縋ってくるんだ」
 自分へのレイプも、結局の原因は薬のせいなのだと、春樹は甲斐のない弁護をした。
 高校生が麻薬を持つ、使う、売る。そうした事実があることを、もちろん岬も知らなかったわけではない。事が表沙汰になれば必ずメディアは騒ぐ。
 しかしそれが自分の教え子という身近な場所で起こることだと、分かっていて教師になったわけではない。

 問題の根深さと自分の負った責任の重さに、岬の口をつい、ため息がついて出た。