生物室での実験の授業を終え、昼休憩に入った守谷岬が白衣姿のまま心理相談室に戻ると、室内では例によって例のごとく、隣室の保健医・萱島紘介が応接ソファを占拠していた。
「…またいるんですか」
ベビーフェイスな岬ごときが低い剣呑な声で威嚇したところで、身長以上に態度もでかいこの超絶美形男はびくともせず、ローテーブルに足を上げて暢気に本なんか読んでいたりする。
「おー、授業お疲れー」
「お疲れじゃなくて!」
「お前の白衣姿って見慣れねぇけど、なんかそれもそそるなぁ」
「ムラサキウニの卵割の観察実験だったんですよ。もー、途中で男子が『その白衣萱島の?』とかって騒ぐから、授業進まなかったんですからね!」
「よかったじゃねぇか、公認の仲だ」
「全っ然よくないっ!!」
組別対抗リレーで教員チームが負け、アンカーだった岬の暴露記事が全校にばら撒かれた悪夢の体育祭から2ヶ月が過ぎ、11月も半ばに入っていた。
この2ヶ月、特に体育祭直後は、暴露記事を信じた生徒たちにからかわれたり遠巻きに好奇の視線を浴びせられたり、さらには萱島ファンと思われる女子生徒たちから『気持ち悪い、ホモ!』などと罵倒されたりと、けっこう散々な毎日を送っていた岬だった。
その度に岬は事実無根だと声を大にして弁解を続けてきたので、最近は本気で信じている生徒も少なくはなってきているはずなのだが、それでも悪ふざけの延長でからかってくる生徒はあとを絶たない。
…まったく、よりによってあんな写真を、と岬は思い出すだけで今でも頭を抱えたくなる。
暴露記事に載せられていたショッキングな写真、それは一見すると明らかに岬と萱島のキスシーンで、けれど真相はただ岬のコンタクトのズレを萱島が見てやっていただけの場面を捕らえたものだった。
(僕が萱島先生と、キっ、キスなんか、するわけないのにっ…)
思い返してまた頬に血を上らせて、岬は乱暴な手つきで白衣をロッカーにしまった。そして横目でちらりと、本を読み続けている萱島の姿を盗み見る。
――よりによって、と思うのは、それがなまじ全くの事実無根ではないからだ。
岬はともかく。萱島は、岬を好きなのだ。それは友情の範疇ではなく、恋愛対象として。
その萱島の気持ちを、まだ岬は理解できていない。いや、男が男を好きになるなんて、これからも一生理解できないんじゃないかとも思う。男は女を、女は男を、愛し、いつかは生涯の伴侶として選ぶのが普通の恋愛だというのが世の常識だからだ。
けれど、男同士とかは関係なく、人が人を愛する気持ちに違いがないというのなら、岬は大声で萱島との関係を否定することを、少しためらう。
萱島と一緒にいるところを目撃されれば、必ずといっていいほど揶揄の声がかけられる。その時、咄嗟に岬は大声で『違う!』と全否定してしまうけれど、言ってしまってからいつも、隣にいる萱島の気持ちを考える。
自分の好きな人が、自分との関係を、ありえないとばかりに全否定したら。
…それはとてもショックなことで、ひどく傷つくんじゃないだろうか。
見上げるたびに萱島は、穏やかな表情で笑みを浮かべているけれど。
(僕、萱島先生にはけっこう酷いこと遠慮なく言っちゃってるしなぁ…。けどそれでちゃんと傷つくほど繊細な人にも見えないし……でもでも、実はすごい傷ついてて、それを見せないようにしてるだけだったらどうしよう…)
ロッカーの扉に手をついたままそんなことを考え込んでいたら、ふとこちらを見やった萱島と目が合った。
「ん? 何?」
普段、他の教師や生徒と対するときはもっと無愛想な仏頂面のくせに、こうして相談室で二人きりで話しているときには、ちょっとドキッとするほど優しい表情をする。
「べつに、なんでも」
急に高まった鼓動を気取られないようにさっと視線を逸らせると、あそう、と唸って萱島はまた読書に戻った。
――と、不意に相談室のドアが、コンコン、とノックされた。
「あ、はい、どうぞ!」
今日の昼休憩は面接の予約がなかったはずだけど、と思いながら返事をすると、ためらいのない勢いでガラリとドアが開いた。
そこに立っていたのは、細身の体格にやや大きな制服を程よく着崩した、無造作な髪型の今時っぽい男子生徒だった。上履きの色から、2年生だと分かる。
その生徒の視線が、ソファの萱島で止まる。
「…お邪魔でしたか?」
平坦な声が尋ねた。その声にあまりに感情がこもっておらず、一瞬岬は自分に向けて言われた言葉なのだと気づかなかった。
「え? 邪魔? そんなこと全然ないよ、当たり前でしょ。どうぞ座って」
慌てて岬は椅子を勧めたが、少年はドアの位置から動かないまま、萱島を見つめ続けている。その視線をしばしまともに正面から受けてから、萱島はパタンと読んでいた本を閉じ、ソファから立ち上がった。
「…俺、保健室戻るわ」
「あ、はい。お疲れ様です」
いつもの仏頂面に戻った萱島に如才なく挨拶をし、相談室を出て行く長身の背中を見送った。
ふと少年を見やると、彼も萱島がドアを出て行くのを見送っていた。そうして萱島が完全に保健室の中へ戻ると、少年は相談室のドアを閉め、岬の勧めた椅子に腰掛けた。
「ほんとにお邪魔だったみたいですね」
また、誰に話し掛けているのか分からない、独りごちるような声音で少年が呟く。
「何言ってるの。萱島先生と僕は何の関係もないんだよ、変な噂とか体育祭のデタラメな記事とか、信じないようにね。それで、何か相談事かな?」
「ああ、はい」
頷いた少年に微笑んで、岬はデスクの引出しからまだ白紙の調書を取り出した。
「じゃあ、名前と学年とクラス、教えてくれるかな」
「河瀬春樹、2年6組。…先生それ、カルテみたいなもの?」
岬が少年の名を書き込んだ調書を指差して、春樹は問うた。
「そうだね、病院じゃないからカルテとは言わないけど。備忘録みたいなもの」
「生徒から聞いたこと、忘れちゃうんだ。そりゃそうだよね、教師が片手間に相談員なんか兼任してるんだもんね」
抑揚のない声に、心理相談員に対する明らかな不信感を悟って、岬は少し困った笑みを浮かべた。
「どっちが本分かって言ったら、僕は相談業の方を優先させてるつもりだけどね。受け持ちの授業はすごく少なくしてもらってるし」
「あー。うん、俺先生の授業受けたことないや」
「それでも相談に来てくれる数が増えると、把握しきれないことも出てくるし。だから大事なことを忘れないように書き留めてるだけなんだよ」
「そうかぁ」
春樹は、安堵とも納得とも取れないような言葉で頷いた。そうかと思うと、 「俺のクラス、体育祭の組別対抗リレーで優勝したんだよね」 などと、この場にはおよそ関係のなさそうな話題を持ち出した。
なんだか掴み所のない子だな、と岬は思った。表情は希薄だし、淡々とした感情のこもらない口調で論点の定まらない話し方をする。
「そうだったね、そういえば6組が1位だったね」
岬が話題に乗ってやると、春樹は一瞬黙り込み、小首をかしげるような仕種をした。
「…先生、ほんとに萱島先生とは何でもないの?」
「は!?」
まだ言うか、と振り返った岬に、春樹は問いを重ねる。
「先生はホモじゃない?」
「当たり前でしょ! 違うよ!!」
自分でも何をこんなにムキになっているのだろう、と思うほど語気が荒くなって、岬は落ち着こうと深呼吸を試みた。
「じゃあ、男が男を好きになる気持ちなんかわからない?」
けれど岬の怒りが見えているはずの春樹は、それも意に介さないかのように淡々と呟いた。
「…河瀬くん?」
「だったら俺の相談事は、先生にしても意味がないかもしれないなぁ」
ある意味岬の存在を否定する一言を舌に乗せた春樹は、元からやや虚ろな瞳を曇らせ、肩を落として視線を遠のかせた。