「ごめんな、空港まで見送り行ってやれなくて」
駅のホームで健二に荷物を渡しながら、申し訳なさそうに春樹は俯く。その春樹の頬に触れて、顔を上げろと、健二は笑う。
「…急すぎるよ」
別れの言葉が見つからないと、春樹は眉根を寄せた。今にも涙に潤みそうな瞳に見つめられて、困って健二は首を傾ける。
「すぐにまた、引越しのこととかで日本には戻ってくるから」
「だけどまたすぐにフランス帰っちゃうんだろ?」
それはそうだけど、と健二は別れを惜しんでくれる春樹の目をまともに見られなくなる。わかり易く見せてくれる寂しさは、けれど単なる幼馴染へ向けるものだと健二には知れて、それが少し切ない。
春樹から目をそらせたついでに、健二はちらと腕時計に目をやった。
「……守谷先生には、悪いことしたかな」
きっと今頃、職員朝礼で健二の退学を唐突に聞かされていることだろう。力になりたいといってくれたあの人は、その相手が学校を去ることになったと知って、胸を痛めているかもしれない。
「先生に謝っといて。心配しなくても、俺はちゃんと納得ずくで行くんだからって」
律儀に教師を案ずる健二に、春樹は小さく息をつく。
「それは心配しなくたって大丈夫だよ…萱島先生がいるから」
「…やっぱりあの二人って、そーゆー?」
「うーん、まだ、だけど。いずれはそーなるんじゃない、相手が萱島だし」
守谷先生逃げられないんじゃないの、と気の毒そうに春樹が呟けば、健二が湿り気のない笑い声を聞かせる。
納得ずくなのだと言う健二の言葉を、春樹は疑うつもりはない。色々あって、なんだかんだ言いながら、それでも健二が誰よりも母を愛していたことを、春樹は知っている。裏切られ、目を逸らされ続けた願いが遠い地で叶えられるかもしれない期待に、健二が明るくなるのも自然なことだった。
「でもそうなったら、お前にも望みが出てくるわけだ」
そのままの笑顔で、健二は春樹の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「俺が言うなって話だけど……もう、これからは好きな相手だけまっすぐ見てろよな。余所見なんかせずに、頑張れよ。幸せになれ」
その言葉に嘘はないと、強い意思で笑みを崩さないまま健二は言った。
――本当は、自分が。春樹の傍に在りたかったと。春樹の幸せを、自分が齎すことができればと。
願う気持ちが潰えたわけでは決してない。ただ、自分の独り善がりなその欲を、もう春樹に押し付けるのはやめようと、健二は強く心に決めていた。
だからその欲の存在を、もう春樹に伝えてはならない。ここで笑みを崩してしまえば、その欲がまだ強くここに在ることを知られてしまう。
知られずに、ただ幸せになってほしいのだと、その想いだけを渡そうと思うなら、ここで泣いたりすることはできないのだ。
けれど渡された春樹には、健二の本心も確かに透けて見えて。
それでも自分のために手を離そうとしてくれた健二の矜持を守るために、春樹はただ俯いて、ありがとう、と呟いた。
相談室に戻ってからも、岬はどこか、心ここにあらずといった風情でぼんやりとしていた。
萱島がそろそろ保健室に戻ろうかと思っても、ソファで隣に座った岬の左手が白衣の袖を掴んだままなものだから、心配なのも手伝って退室することができない。
「…なあ、守谷」
そろそろ放してくんねぇかな、と言おうかと思って声を掛けるが、心細げな瞳で見つめられればそんなことを言うのは酷く非情なことのように思えて、ため息をついて萱島は膝に頬杖をついた。
「退学だって考えるから、でかいことみたいに思えるんだよ。要は家庭の事情で転校するってだけだろ。そんなの大して珍しい話でもねえぞ?」
こういうことに関して気が利かないなりに慰めを考えてはみるが、一向に岬が浮上する様子はなく、気短に焦れた萱島は握られた袖を外させ、その手で岬の肩をぐっと抱き寄せた。
「お前よぉ。どーせ自分には母親がいねぇから成田の気持ちがわかんねぇんだとかって拗ねてんだろ」
そう言って図星を突いて萱島は、ったくそんなつまんねぇことで毎回毎回拗ねんなよ面倒くせー奴だな、と散々なことを言う。
「だって…」
「だって何だよ。持ってねえ奴が持ってる奴の気持ちがわかんねぇのなんか当たり前だろ。逆もまた然りだ。お前のやってる相談業務、前は俺もやってたことだけどな。相談受けて、そいつの身になって考えてやろうって、任されたからには努力しなきゃなんねぇよそりゃ。でも所詮は他人なんだよ、自分と全く同じ経験をしてきてるわけでもない。それで完璧に理解してやろうなんてのは不可能だし、理解してやれるつもりになるなら単なる驕りだ」
「じゃあどうしろって言うんですか僕に!? 結局僕は何の役にも立たない、ここにいたって相談を受けたって意味がないってことじゃないですか!!」
自分の言葉に傷ついて涙を溢れさせた岬を肩に招いて、萱島はそっと髪を梳く。
「…だから。できることは限られてるだろ。わかんねえなりに、得た情報から相手の立場や心情を推察して、相手の必要としてる言葉を掛ける。それしかできねえし、それだけで十分なんだよ。そんで、お前はちゃんとそれができてる、大丈夫だよ。お前だけが認めてやってねぇだけだ。自分には何もできてない、何の役にも立たないって、同じとこでぐるぐる回ってそんな顔ばっかすんな」
萱島は自分の肩から岬を離し、まだ濡れた目元を拭い、てのひらで頬を覆った。
「お前が悲しい顔してると、俺がつらいだろ」
萱島が、深い情を湛えた瞳で、慈しむように見つめている。そのことに初めて気づいたような思いで、岬は吸い込まれそうに萱島を見つめ返した。
すっと、距離が縮まった気がして、無意識に岬は瞼を閉じる。
左の耳の下に、萱島の右の掌が添えられるのを感じた。
…何をされるのか、わかっているような、わからないような。
そんな曖昧な感覚で岬は萱島に身を任せた―――
と、そのとき。
「あ」
ガラッと開いたドアの音に、そんな間の抜けた声が重なった。数秒遅れて、岬の口からも同じ言葉が発された。
「…すみません、毎度毎度お邪魔を…」
そこで目頭を押さえていたのは、健二の見送りを終えて遅刻して登校してきた春樹だった。
「いやだからっ、邪魔だなんて、ねえ先生! そんなことないですよねっっ!!」
ドアのところまで飛び出していって取り繕おうとする岬の姿がいっそ不憫で、萱島はソファに伸びた。
「お前もなぁ、ちったぁ学習しろよな…ドアを開ける前にノックだノック!」
小言を言う間にも岬は三人分のお茶を用意し、とっくに一時間目の授業は始まっているというのに春樹を引き止めてもてなし始める。
それを呆れ半分で見ていれば、春樹から健二の話を聞いている岬の表情が見る間に明るくなっていくのが手に取るようにわかった。
(誰か、誰でもいーよ、神様でも何でも。守谷に、俺のありがたみってのを教えてやってくんねぇかなー……)
やりきれなくため息をついた萱島は、和気藹々と会話に花を咲かせる二人を残して、煙草を吸うために部屋を出た。
<END>