断定的に言った岬の言葉がよほど気に食わなかったのか、佳織は露骨に表情を歪めた。
「…なんでそんなこと言うの?」
「きみに母親になる資格はないよ。母親になんかなれない」
「だからなんでそんなこと言うのかって訊いてるのよ!」
平手をテーブルに叩きつけて、その勢いのまま佳織は立ち上がった。それを、岬は無表情に見上げる。
手先から血の気が引き、この幼い少女の言うことをまともに取り合う気が失せているのを岬は感じた。
「生まれた子どものことを考えない人間が、どうやって母親になろうって言うの?」
静かに、岬は問う。
「きみは子どもを産んで、その存在を逆手にとって旦那を奪い取りたいってだけだろう。子どもはそのためだけの道具、じゃあ用が済んだらその子をどうするの? それから何十年も、きみはその子を育てて、その子の人生の傍にいなきゃいけないんだよ。死ぬまで母子の関係は切れないんだよ。その関係を、きみは負えるの? せっかく奪えた旦那とも、子どもがいたんじゃ恋愛関係の質も変わる。きっときみが想像してるものと実際の家族関係は違うものだと思う。子どもを愛してなきゃ、子育てなんかできないよ、きみは産んだ子どもを愛していけるの?」
畳み掛けられて、佳織は惑う。凪いだ岬の瞳を直視できず、視線を逸らして声を絞り出した。
「…だから、産まれたら考えるわ」
「問題にならないね」
その場しのぎにもならない佳織の言葉を、ふっと笑んで岬は言下に却下した。
「一つ、教えてあげる。僕は25年も生きてないし、妻もいないけど、きみの彼氏が考えてることは想像がつく。彼がきみに、高校卒業したら離婚してあげると言った、そんなの出任せだよ。高校生の感情なんて変わりやすいものだって、高をくくってるんだろう。卒業する頃にはきみの気持ちは変わってるだろうから、それまで浮気を楽しもうって算段じゃないのかな」
酷な声に、佳織は頭に血を上せる。
「彼はそんな人じゃないわ!」
「どうかな。大人ってきみが思うよりずっと狡猾で打算的なんだよ。特に社会人になって家庭を持った男は保守的になる。……嘘だと思うなら妊娠の件、彼に話してごらん。どんなリアクションをするか楽しみだね」
顔を真っ赤にして、佳織は唇を噛み締めた。反論の言葉が見つからなかったのか、その気も失せたのか、岬をきつく一瞥して踵を返す。
そして相談室を出て行こうとしてドアを開け、そこに立っていた長身にぶつかった。
「あ、わり…」
謝った萱島を無言で睨み上げて、佳織は廊下を駆けて行く。
その背中を見送って、萱島が相談室の中に入ると、岬はローテーブルに肘をついた両手の中に顔を埋めていた。
「…けっこー、えげつない現実を見せるのな、お前でも」
掛けられた声に、掌の間から片目を覗かせて岬は自嘲気味に笑った。
「聞いてたんですか」
「なんか途中で大きな声が聞こえたからな。言い争いでもしてるのかと思って」
立ち聞きするつもりはなかったんだけど、と萱島は詫びる。
岬は疲れきったように、顔を覆った手を解いてソファの背もたれにのけぞった。
「はは。なんかむきになっちゃった。大人げないな」
「……おい、大丈夫か。めちゃくちゃ顔色悪いぞ」
心配げに歩み寄った萱島が岬の額に触れると、しっとりと冷たい汗が浮かんでいた。
触れられた手の感触に安堵したように、岬が長いため息をついて目を閉じる。
「なんか。よっぽどだよな、お前があんな言い方するなんて」
これまで岬が生徒を叱咤したり蔑んだりする姿を見たことがない萱島は、ソファの肘掛に座って岬の肩をそっと抱いて引き寄せた。
萱島の腕に体を預け、岬は薄く瞼を上げる。
「――なんか、我慢できなくなっちゃって」
「なんで?」
「あの子の考えが、僕の母親と重なって」
岬の口から母親のことが語られるのに、萱島はピクリと反応した。
2ヵ月半前、岬は母親を持たないと言ったのに。
「…僕の母もね、若くで妻子持ちの男の子どもを身ごもって。いつか別れてくれるって、男の言葉を馬鹿みたいに信じて、何年も。でも、子どもが小学校に上がる頃、ついに絶望して。その子どもの首を絞めて、殺したんです」
他人事のように話す岬に、萱島は誰の話をしているのか見失いかける。
「でも、呼吸を止めて死んだと思った子どもは、実はまだ生きてて。咳き込みながら僕が息を吹き返したとき、隣で母は心臓に包丁を突き刺して死んでいました」
けれど殺されかけた子どものことを一人称で語る岬に、萱島はその話が岬自身の過去であると認識した。
「父親は認知はしてくれましたが、僕は小中高、ずっと寄宿舎か寮で生活してました。だからまあ、家族を知らない僕が家族関係について語るのもおこがましい話なんですが」
虚ろに笑う岬の肩を抱いた手に、萱島は力を込めた。
「……息を吹き返したあと鏡を見たのは、病院に担ぎ込まれてしばらくしてからだったから、首を絞められてからかなり経ってたはずなんですけどね。それでもこう、首に、指の跡が。びっくりするくらい、くっきり残ってたんですよね。今でも時々それを思い出すけど、なんか、あーあの時で母親にとっての僕の存在意義は終わってたんだなって、思うと辛いです」
辛さを隠すことなく明かした岬の頭を、萱島はくしゃりと撫でた。
心地よく撫でられながら、自分がこの手を望んでいたことを岬は自覚する。
弱さを、痛みを、明かせば包んでくれる手があることを、無意識で知っている。
けれどそれに甘えてはならないと、意識が発する警告に目を醒まし、岬は萱島の手から離れた。
「子どもは、無条件に愛される存在でなければならないと思います。両親の間の愛が形を成して生まれる子どもに、親は掛け値なしに愛情を注げる存在でなければ子どもを幸せにすることはできないと思うんです」
「…理想論チックだけど、まあ正しいな」
ソファに腰を落とし、のんびりと煙草に火をつける萱島に、岬はふと笑んだ。
「それにしても酷いこと言っちゃった。後でちゃんとフォローしとかなきゃ。ひょっとしたら相手の人も、真剣に彼女とのことを考えてたのかもしれないし」
独断でものを言っちゃいけませんよね、と笑ってデスクに座り直す岬の伸びた背中を、萱島は微笑んで眺めた。
「俺は正論だと思ったけどな。あいつがもし本当に今産むっつーんなら、一番の被害者は何の罪もないその子どもってことになるし。17歳にもいろいろだろうけど、あいつは親になるにはまだ全然未熟だよ」
「きっと本人は未熟じゃないつもりなんですよ。僕だって高2の頃とか、十分大人なつもりでその時の彼女と一生一緒にいるんだー、とか本気で思ってましたもん。いやぁ、我ながら若くて愚かでした」
「若さのさなかにいるときは、わかんねぇもんだよな。今の俺たちだって、十年後に思い返せば青春だったとか言ってるかもしれねぇし」
「はは。そう言えるくらい、十年後に成長できてればいいですけど」
話が笑いに落ち着いたところで、昼休憩終了5分前の予鈴が鳴った。
「お。じゃあそろそろ俺、保健室に戻るわ」
「はい。僕も5限は授業だ」
いそいそと授業の準備を始めた岬に、相談室を出かけた萱島が、そうだ、と思い出したように声を上げた。
「お前の存在意義。俺にとってはまだ全然終わってねぇからな」
「え」
何を言い出すかと驚いて顔を上げると、体半分既に廊下に出た萱島が、目を細めてこちらを見つめていた。
「お前にはまだこれから、俺の恋人として楽しく過ごす義務があるんだよ」
そう言って、ドアはぱたりと閉められた。
(……すっごいキザ)
あまりのクサさに一瞬呆然となりながら、けれど決してポイントは外さない萱島の抜け目なさに、岬は笑った。