愛のカタチ -03-


 昼休憩、ドアがノックされ、石川佳織が相談室を訪れた。
「あ」
 その顔を見て、岬は思わず声を上げる。
「? 何ですか?」
 不思議そうに見返す佳織は、間違いなく土曜日に、映画館の近くで見かけた女子生徒だった。
「…あ、いや、ごめん。石川佳織さん。先週の土曜、映画館の近くにいたよね」
 佳織は少し考える素振りで小首を傾げ、思い出したように笑みを浮かべた。
「はい、いました。先生もあの辺にいたんですか?」
「うん。お隣の萱島先生と、映画の試写会にね」
「へぇー。先生たちも一緒に遊んだりするんだー」
「まぁあれは成り行きだったんだけどね」
 どうぞ、と岬はソファを勧め、氷を浮かべたアイスティーを出した。ソファに座るなり、佳織は制服のスカートをパタパタとはためかせる。
「はー、あっつーい。いいなー先生、いつもこんなクーラー効いた部屋で仕事してるのよね」
「あはは。教室は冷房ないから夏場は大変だよね」
 笑いながら、元々長くはないスカートから大きく覗いた太腿から岬は視線を逸らせた。無邪気に素足を見せるこの子も立派な女性なのだと思うと、生々しさに直視できないような気分になる。
 相談室にやってきた佳織は、想像していた女生徒像からはかなりかけ離れた少女だった。
 セミロングの髪はまっすぐで色も黒いし、耳にピアスも見られない。くるんとカールした睫毛にはマスカラが塗られているが、そんなに派手な化粧っ気のある顔でもない。制服の着崩し方もまあ標準的。
 こんな、いわゆる普通の女子高生が、妊娠などという大きな問題を抱える存在になり得るのだということに、岬の背は少し寒くなった。
「…じゃあ、ひょっとしてあの時一緒にいた社会人ぽい人が、石川さんのお相手?」
 問うと、佳織は締まりのない顔でにへらと笑った。
「うん。25歳でね、西岡さんてゆーの」
「25歳? えらく年が離れてるね、どうして知り合ったの?」
「んー? 友達の友達の知り合いの紹介?」
「…まさか援助交際とかじゃないよね」
「違うよー失礼なー。普通につき合ってるの、普通に」
「ああ、そうなんだ、ごめん」
「不倫だけどね」
 援交でないならば恋愛は自由だ、と安心しかけたところへの爆弾発言に、岬は目を瞠った。
「不倫!?」
 驚いた岬の反応に驚いたように、佳織はアイスティーのストローを銜えたまま岬を見返した。
「そんなビックリしなくたって」
「…ビックリもするよ、高校生が不倫なんて」
「たまたま好きになった人に奥さんがいたってだけよー」
 まあ不倫なんて始まりはそんなものかもしれないが、そんな恋愛の形式が女子高生の身近にあっていいものなのだろうか。
 昨今の高校生の恋愛事情に目を白黒させるような心地で、岬は気を落ち着けようとグラスに手を伸ばした。
「それで、その…妊娠したかもっていうのは、確定してるの?」
 訊きづらさに小声になった岬の問いに、佳織はストローでグラスの氷をつつきながら、首を横に振った。
「まだわかんない。先月生理が来なくて、今月ももう2週間くらい遅れてる。だからできちゃったかなとは思うんだけど、産婦人科なんか行きにくいし、妊娠検査薬とかもいつから測れるのか知らないしー」
「…それは僕も知らない。最近の市販の検査薬はかなりの精度だとは聞くけど。…そのこと、相手やご両親には?」
「親になんか言うわけないよー、言ったって堕ろしなさいで終わりでしょ? 言うなら中絶できなくなってからにする。西岡さんにもまだ言ってないから、これから」
 軽々しく言う佳織に岬は、やはりこの子には現実が見えていないのだと嘆息する。
「妊娠するような、心当たりはあるわけ?」
「うーん。毎回必ずゴムつけてたってわけじゃないかなー。でも中出しはなかったと思うのよ、それはさすがに、外で出してたんだけど。まあ一回や二回、しくじっててもおかしくはないかなーって」
 臆面もなくそんな話を聞かせる佳織に、岬は俄かに頭痛を覚えて、遠くを見つめて息をついた。
「まず、とにかく相手に話さないと。相手に奥さんがいるならなおさらだよ。それから本当に妊娠してるのかどうかを調べて、自分が子どもを産める環境にあるのかどうかをしっかり考えなきゃ」
「……産める環境って?」
 佳織は無邪気に、きょとんと問い返す。その顔にはまるで悪気も後ろめたさも、不安すら浮かんではいない。
「出産にいくらかかるか知ってるの? お金のことだけじゃない、きみはまだ高校生だし、子どもを産み育てるには障害が多すぎる。相手が結婚してるなら、一人で子どもを育てなきゃならないんだよ。それだけの覚悟をして、それでも今産みたいと思ってるの?」
 いかにも佳織が今出産することに対して反対しているかのような岬の言葉に、相談室へ行けば何はともあれ肯定的に相談に乗ってくれるものと思い込んでいた佳織は、いささか気分を害して音を立ててグラスを置いた。
「どうしても産みたいの。今この子を産めなきゃ意味がないの」
「何をそんなに焦ってるの? 正直僕から見て、今はきみにとっても相手にとっても、いい時期だとは思えないよ。せめてきみが高校を卒業して、今の彼と結婚をするならそれなりの手順を踏んでから、祝福される形で子どもを作って出産した方が、社会的にも経済的にも」
「産めばどうにでもなるのよ」
 声の調子を変え、語気を強めてそんなことを言った佳織を、耳を疑いたくなるような心地で呆然と岬は見返した。
「彼、あたしが高校卒業したら、離婚してあたしと結婚してくれるって言ってるの。子どもができたって知ったら、きっとすぐにでも離婚してくれるわ。そうしたらちゃんと父親だってできるし。産みさえすれば親だって援助してくれるわよ。だからどうにでもなるわ」
 安易な計画に、本気で言っているのだろうかと気が遠くなる。二の句も継げない岬に、さらに佳織は言い募った。
「彼ね、今の奥さんとの間にまだ子どもがいないの。あたしが先に産めば、彼は絶対にあたしを選ぶわ。奥さんと別れてくれるって、本気で言ってるかはあたしだって不安よ。でも子どもさえいれば彼はあたしを選ばざるを得なくなるのよ、そうでしょう? さすがにこんな年下の女と子どもを放っておくことなんて、常識的にできないもの。だから彼の存在を確保するためには、子どもの存在が必要なのよ」
 浅はかな奸計の中に女の本音を見て、岬は絶句した。

 ……この子は何を言っているんだろう。
 産みたいと言うから、よほど子どもに対する思い入れや愛情が深いのかと思えば。
 この子にとって子どもは、相手の存在を繋ぎ留めるための道具に過ぎないのか。
 そうやって愛情を与えることも知らないで安易に子どもなんか産むから。
 ――僕みたいな人間ができるんじゃないか。

 びっしりと汗をかいたグラスの中で、カランと一つ、氷が鳴く。
 一度目を伏せ、そして佳織を見据え、低く、岬は告げた。
「きみは、子どもを産むべきじゃない」