愛のカタチ -02-


 休み明け、月曜1限の授業は少し岬の気分を暗くさせる。
 松野の件で、誰もが岬に過失はなかったと言う。突発的で衝動的な、あれはいわば事故だったのだと。松野の担任からも、その時の授業担当からも、岬は頭を下げられる側だった。萱島に至っては、岬は十分よくやったのだとむしろ褒めてくれる。
 それでも岬は自責の念と折り合いをつけることができず、月曜の朝は必要以上に早く出勤するようになっていた。
 相談室に入り、パソコンを立ち上げる。起動を待ちながら、ぼんやりと岬は、土曜のことを思い出した。
 出掛けに、アパートのポストに見つけてしまったあの葉書。他の郵便物はそのままポストに置いて、帰ったときに部屋へ持って上がった。あの葉書だって、わざわざ持って出る必要はなかったのに。
 確かに、届いているのを見た瞬間、自失したように立ち竦んでしまった。そのままぼんやりと、ポケットに突っ込んで出かけてしまったのだけど。そして電車を乗り過ごすという失態を犯したのだけど。
 ――無意識に、あの葉書を萱島に見せようとしていたのではなかっただろうか、と思い返す。
 あの葉書を見て落胆した自分。その経緯を話せば、萱島が自分を慰めてくれるであろうことを、知っていたのではないか。
 そして実際、萱島に『辛いなら無理して笑うな』と言ってもらえて、岬は安堵した。
 そのことにはっと気づいて、岬は思わず頭を抱えた。
 いつの間にか、萱島に甘えている。萱島が自分を認めてくれることに、甘やかされることに慣れてしまっている。萱島のぶっきらぼうな、優しい言葉を望んでいる。彼の隣を居心地のいい場所と感じている。
(いや……ダメだろそれは……)
 頭を抱えたまま、息をつく。
 慣れるのは当然だ。毎日毎日、暇さえあれば相談室に来る萱島と、もう随分長い時間を一緒に過ごしているのだ。
 その中で、彼の口説き文句を軽く一蹴する術も覚えたし、剥き出しの好意を牽制する術も覚えた。
 けれど、そうして免疫をつけることで彼の向けてくる感情の異質さにすら慣れ、自分の隣に彼の居場所を作ったのでは、向こうの思うつぼというものである。
 それに、彼の気持ちに応えられないのに、好意を逆手に取るような形で甘えてはいけない。
(そうは、思うんだけど……)
 そうは思うが、気分がどうしようもなく沈むとき、萱島の声を無意識に望んでしまう自分に岬は戸惑っていた。
 人の心につけ込むような卑怯な真似をしている自分に嫌気がさすのに、
(どうしたらいいですか、先生…?)
 やはり気づけば萱島に助けを求めているという矛盾の中で岬は、自分にとって萱島が大きな存在になっているのだという事実を自覚できないでいた。
「あ」
 ふと、軽い電子音が新着メールの存在を知らせた。全部で三通。
 皮肉なことに、以前はあれだけ暇だった相談室業務が、松野の一件の後、急に忙しくなった。実際に相談室を利用する者の存在が明らかになり、その敷居が低くなったのだろう。
 相談室へは、進路や恋愛や友人関係や、重たい内容から軽い悩みまで、数多くのメールが寄せられる。一度パソコンへメールをくれた相談者には、携帯のアドレスを教え、個別に対応するようにしている。
 最近その携帯に登録される数が、本当に多い。夕方から夜にかけてなど、他愛もないやりとりが続いて仕事用の携帯はひっきりなしに振動し通しだ。
 またそのメモリが増えるのかと少々辟易しながら岬は新着メールに目を通す。そのうちの一通に、岬の目が止まる。

   2年7組の石川佳織です。
   私、妊娠したかもしれないんですけど、どうしようかと思って。
   生もうと思うんだけど、そしたらやっぱり高校辞めなきゃいけないんですか?


 一瞬、文面の軽さに事の重大さを見失いそうになる。
「妊娠って…17かそこらだろ…!?」
 思わず声を上げたとき、相談室のドアが無遠慮にがらりと開いた。咄嗟にメールウィンドウを閉じようと手が動いたが、来訪者が萱島であることに気づき、一瞬の緊張はすぐに解ける。
「…なに独り言言ってんだ? ちょっと寂しい子みたいだぞ」
「おはようございます。…外まで聞こえてました?」
「何言ったかまでは聞こえなかったけど。何か言ったな、と思ってよ」
「いや、ちょっと、生徒からのメールの内容に面食らっちゃって」
 面食らうような内容ってどんなもんだよ、と言いながら萱島はパソコンを覗き込んだ。 まじまじと読んだ後、眉を寄せてこれ見よがしにため息をつく。
「…ったく、危機感がねぇな、ガキは。テコでも避妊させろよ、その相手にもよぉ。ソレ面倒がるような男はクソだぞ、なあ」
「僕に同意を求めないでください」
 赤らめた顔をしかめた岬は、あらためてそのメールを眺めながら、つい「最近の高校生って…」と年寄りじみた言葉をこぼしてしまった。それを聞き咎めた萱島が、呆れたように腰に手を当てる。
「なにキヨラカぶってんだよ。高校生はセックスしちゃダメってか? お前の童貞喪失いつだよ?」
 女性相手なら訴えられかねないセクハラまがいの質問を、萱島はさらりと投げかけた。
「……高2、でしたけど」
「ホレ見ろ、お前だって人のこと言えねぇよ」
 しかし教育者としてはそれで話を終えていい問題だろうかと、意味もなく岬はマウスを弄ぶ。
「男と女がセックスすりゃ子どもができる可能性は生じるの。そもそもそーゆー行為なの。その辺をしっかり分からせてやりゃいいんじゃねぇの?」
 一任するように背中を叩かれて、岬は難しく頭を掻いた。
「でもこの子、産むつもりって…。やっぱり僕はそれを考え直すように説得すべきなんですか?」
「説得すべきって、説得できるのかよお前に」
「う……」
「まあ、まだ妊娠したかもしれないって段階だろ? 確定してないんだったら時間的にも余裕がないわけじゃないさ。まずは話を聞いてやって、お前の思うような言葉をかけてやれよ。本当に妊娠して産むとなりゃ、こいつが考えてるほど話は単純じゃねえ。相談相手も必要になるだろ、力になってやれ」
 いつもとは違う、少し突き放したような萱島の言い方に、岬は違和感を覚えて恨みがましげな視線を上げた。
「…なんか今回、協力してくれる気ゼロじゃないですか?」
 いつもならば頼るような視線を寄越されては甘い顔を見せずにはいられない萱島だが、今回ばかりは軽く肩を竦めてその視線の含む期待を却下した。
「俺は女は嫌いなの。女子生徒も、生徒だと思えばこそ相手もできるけど、それを女性として扱うなんてまっぴらだね。なのでこの件に関しては、俺はパス」
「そーですか…」
 まるっきり個人的な理由で関与を拒否した萱島にため息をついて、仕方なく岬は石川佳織に宛てて、今日の昼休憩に時間があれば相談室に寄るようにとの返信を書いた。